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第三十二節 沈貴人の決断

 第三十二節 沈貴人の決断


静かな夜の帳が降りる中、沈貴人は灯火の揺らめく自室で沈思していた。沈逸の言葉が脳裏に残響のようにこだまする。


(私は……本当に動くべきなの?)


彼女はこれまで、皇帝の寵愛を受けることで後宮での立場を守ってきた。しかし、今やそれだけでは足りないことを思い知らされた。皇后の試練、蘭雪の介入、沈逸の策謀——すべてが、彼女に「選ぶ」ことを迫っている。


「あなたが“後宮の中で力を持とうとしている”と示せば——必ず誰かが、それを妨げようとする」


沈逸の言葉が脳裏をよぎる。


(……私が何かを求めれば、敵が動く。それが誰なのかを知ることができる——)


沈貴人はゆっくりと灯火の揺れる卓を見つめ、意を決したように筆を執った。


(皇帝陛下に、願いを——)


慎重に紙に筆を滑らせる。


「紫蘭殿にて詩会を催したく存じます」


詩会。それは単なる文雅の集まりではない。後宮の女性たちが一堂に会し、表向きは風雅を楽しみながら、内実は政治的な駆け引きが行われる場でもある。


もし彼女がこの詩会を主催し、皇帝がそれを許せば——彼女は単なる寵妃ではなく、「文化を司る貴人」としての立場を確立することになる。


(詩会を開くことで、私がただの寵妃ではなくなる。そうすれば——)


沈貴人はそっと筆を置き、深く息をついた。


「……これでいい」


彼女の指先はわずかに震えていたが、その瞳には決意の光が宿っていた。


***


紫蘭殿の庭園に、雅やかな香が漂う。沈貴人が提案した詩会の開催が正式に決まり、後宮の妃嬪たちの間で大きな話題となっていた。


「沈貴人が詩会を?」


麗妃が眉をひそめながら、侍女の報告を聞いていた。


「ええ。すでに陛下の許可が下り、各殿にも招待状が届いております」


「ふふ……興味深いわね」


麗妃は手にした茶碗をゆっくりと揺らしながら、目を細めた。


(沈貴人がここまで動くとは……誰かの入れ知恵かしら?)


これまで沈貴人は、皇帝の寵愛を受けながらも大きな動きを見せず、慎ましく振る舞っていた。それが突然、詩会を催すというのは不自然だ。


(蘭雪……? それとも、沈逸?)


考えを巡らせるうちに、彼女の唇が微かに歪む。


「面白いことになりそうね」


麗妃はそばに控えていた侍女に命じた。


「私も、この詩会に参加するわ。準備を」


***


皇后のもと


「詩会?」


皇后は優雅に扇を広げながら、沈貴人の申し出を聞いた。


「ええ。陛下も許可を下されたようです」


侍女の報告を受け、皇后は一瞬考える素振りを見せたが、すぐに静かな微笑を浮かべた。


「……沈貴人も、ようやく動き出したということね」


「ご対応はいかがなさいますか?」


皇后は扇を閉じ、しなやかな指で軽く撫でた。


「もちろん、参加するわ。紫蘭殿の詩会——見届けなくては」


***


沈貴人のもと


「本当に大丈夫なの?」


蘭雪が心配そうに沈貴人を見つめた。


「皇后様も麗妃も参加なさるのよ。下手をすれば、あなたの立場が危うくなるわ」


沈貴人は微かに微笑んだ。


「ええ……分かっているわ」


「なら……なぜ?」


沈貴人は静かに筆を手に取り、詩を書き記した。


『浮雲は風に流れ、行方定まらずとも

   月はただ、静かに光を宿す』


「私は、流されるだけでは終わらない。風を捉え、自らの道を選ぶわ」


蘭雪はしばらく沈貴人の瞳を見つめていたが、やがて小さく笑った。


「……なら、私もあなたの味方でいる」


「ありがとう、蘭雪」


静かな灯火のもと、沈貴人の決意は確かなものとなった。


***



詩会の当日、紫蘭殿の庭園は華やかな装飾で彩られていた。梅の香がほのかに漂い、石畳には繊細な刺繍が施された緋色の敷物が敷かれている。後宮の妃嬪たちが次々と到着し、それぞれに雅な衣をまとい、控えめな微笑みを浮かべながら席に着いた。


沈貴人は主催者として、一歩前に進み、優雅に一礼する。


「本日はご足労いただき、誠にありがとうございます。ささやかな席ではございますが、どうかお楽しみくださいませ」


「まあ、沈貴人がこのような催しを開くとは驚きですわ」


柔らかな声が響いた。


麗妃である。


彼女は鮮やかな瑠璃色の衣をまとい、扇をゆったりと開いたまま微笑んでいた。その目は沈貴人を試すようにじっと見つめている。


「後宮には詩を嗜む方が多くいらっしゃいます。沈貴人の詩の腕前、ぜひ拝見したいものですわ」


沈貴人は麗妃の言葉に動じず、穏やかに微笑んだ。


「お褒めにあずかり光栄です。ですが、私はまだまだ未熟。皆様の才華を学ばせていただく場と考えております」


「まあ、謙虚なこと。ですが、せっかくの詩会ですもの。まずは主催者たるあなたから、一首披露していただけませんか?」


「そうですわね」


別の声が続いた。


帳の奥、日差しの加減でぼんやりと影を落とした位置に座す——皇后であった。


彼女は優雅に頷きながら、沈貴人を見つめる。


「私も、沈貴人の詩をぜひ拝聴したいと思っておりました」


沈貴人はゆっくりと扇を閉じ、一歩進み出た。


(ここで退くことはできない。私はこの場で、私の価値を示さなければ——)


静かに筆を取り、硯に墨を落とす。


そして、ゆっくりと書をしたためた。


『風過ぎて 影はなお留まるものか

   夜の静寂に 月ぞ独り映す』


沈貴人は筆を置き、すっと立ち上がった。


「風は過ぎ去っても、影はそこに残るのか——夜の静寂の中で、ただ月だけが変わらず輝いている……」


沈貴人の声は静かだったが、確かな意思が込められていた。


沈黙が訪れた。


その静寂を破ったのは、蘭雪の拍手だった。


「素晴らしい詩ですわ、沈貴人」


彼女の言葉に続き、他の妃嬪たちも感嘆の声を上げる。


しかし、麗妃は扇を軽く揺らしながら、微かに笑んだ。


「確かに美しい詩ですが……少し気になることがありますわね」


沈貴人は静かに彼女を見つめた。


「……風が過ぎても、影は残るのか、という問い。その答えはどこにあるのでしょう?」


麗妃の言葉に、場の空気が再び緊張する。


沈貴人は穏やかに微笑み、ゆっくりと口を開いた。


「答えは——見る者の心次第です」


その瞬間、皇后の唇がわずかに動いた。


「……ふふ」


小さな笑みを浮かべ、彼女は扇を静かに閉じた。


「実に興味深い」


皇后の言葉が、沈貴人の詩を認めた証であるかのように響いた。






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