第三十一節 沈逸の思惑
第三十一節 沈逸の思惑
夜の静寂の中、蘭雪と沈貴人は並んで歩いていた。紫蘭殿を出てからというもの、沈貴人は何も言わず、ただ前を見つめていた。
蘭雪はそんな沈貴人を横目に見ながら、慎重に言葉を選んだ。
「沈貴人……何か考えているの?」
沈貴人はゆっくりと息を吐き、ようやく口を開いた。
「皇后様のお言葉が……胸に響いているの」
「“選ばれる側ではなく、選ぶ側になれ”——まるで、私がこれから何かを決断しなければならないように……」
「……確かに」
蘭雪もまた、皇后の言葉の意味を噛みしめていた。
(沈貴人の存在が後宮において大きな意味を持つようになってきた……それはつまり、彼女を取り巻く陰謀がより深まることを意味する)
その時——。
「お二人とも、夜道を歩くとは風流ですね」
涼やかな声が背後から響いた。
振り返ると、そこには沈逸が立っていた。
白い衣が月明かりに照らされ、夜気の中で幻想的に揺れる。
「沈逸……」
蘭雪が名を呼ぶと、彼は穏やかに微笑んだ。
「お疲れのようですね、沈貴人」
「……ええ、少し考え事を」
沈逸は沈貴人を見つめながら、ゆっくりと歩み寄った。
「皇后様のもとで、何か学びましたか?」
沈貴人は一瞬ためらったが、正直に頷いた。
「ええ。私は……もっと強くならなければいけないと」
「なるほど」
沈逸は満足げに微笑むと、ふと蘭雪に目を向けた。
「あなたはどう思いますか?」
「私?」
「ええ。蘭雪殿は聡い方だ。沈貴人がどのように変わるべきか——何か考えはありますか?」
蘭雪は沈逸の言葉の意図を探りながら、慎重に答えた。
「沈貴人は、後宮で生き残るための知恵と力を身につけるべきです」
「そして、それを誰かに委ねるのではなく、自らの意志で選び取ることが大切——そう思います」
沈逸は一瞬目を細めた後、満足げに微笑んだ。
「やはり、あなたは面白い方だ」
沈貴人は二人のやり取りを見つめながら、小さく息を吐いた。
「私は……どうすればいいのでしょう?」
沈逸は沈貴人を見つめ、静かに言った。
「沈貴人、あなたにとって大切なのは“敵を知る”ことです」
「敵……?」
「ええ」
沈逸の表情がわずかに引き締まる。
「この後宮には、多くの者が思惑を抱いています。あなたが皇帝の寵愛を受けることを快く思わぬ者も多い」
「その中には——皇后様ですら警戒する存在がいる」
沈貴人は驚き、蘭雪もまた息をのんだ。
(皇后様ですら警戒する者……?)
沈逸は二人を見つめながら、ゆっくりと続ける。
「私は、あなた方が無駄な犠牲になるのを望みません」
「ですから——私に任せてもらえませんか?」
沈貴人は驚きの表情を浮かべ、蘭雪は沈逸の言葉の意図を探るように彼を見つめた。
「あなたに……任せる?」
沈逸は微笑む。
「ええ」
「後宮の影に潜む敵をあぶり出し、あなたが“選ぶ側”になれるよう——私が手を貸しましょう」
沈貴人はしばし沈黙した後、ゆっくりと蘭雪に目を向けた。
蘭雪は沈逸を見つめ、慎重に尋ねる。
「……それは、沈貴人を守るため?」
「それとも——別の目的があるのですか?」
沈逸は微笑みを崩さぬまま、蘭雪を見つめた。
「さて、どうでしょう?」
沈逸の真意は、未だ闇の中にあった——。
「私の目的が何であれ、沈貴人が後宮で生き抜くためには、敵を知ることが必要です」
「そして、敵を知るためには——まず、動かさなければなりません」
沈貴人は沈逸の言葉の意味を探るように視線を彷徨わせる。
「……動かす?」
「ええ。静かにしていれば、敵もまた慎重になり、動きません」
「しかし、あなたが“何かを始めようとしている”と示せば、必ず誰かが反応する」
「その“反応”こそが、敵の正体を知る手がかりになるのです」
沈貴人は息をのんだ。
(私が何かを始めることで、敵が自ら動き出す……?)
沈逸はそんな沈貴人の戸惑いを見透かしたように、静かに言葉を続けた。
「皇后様のもとに通うのもよいでしょう。あるいは、陛下に何か新しい願いを聞いてもらうのも手です」
「あなたが“後宮の中で力を持とうとしている”と示せば——必ず誰かが、それを妨げようとする」
蘭雪は沈逸の策謀の深さに驚きを覚えながらも、慎重に口を開いた。
「……つまり、沈貴人を“餌”にするのですか?」
「“餌”とは穏やかではありませんね」沈逸は微笑む。「私はただ、機会を作ろうと言っているだけです」
「ですが、沈貴人が動けば、それだけ危険も伴うでしょう」
「当然です。しかし、じっとしているだけでは、いずれ淘汰される」
沈逸は静かに沈貴人を見つめた。
「あなたはどうしますか?」
沈貴人は沈逸の言葉を反芻しながら、拳を握った。
「私は……」
「……私は、もう“選ばれるだけの存在”にはなりたくない」
「私の未来は、私が選ぶ——」
その言葉に、沈逸は満足げに微笑んだ。
「では、まずは一手——打ってみましょうか」




