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第三十節 蘭雪の警告

 第三十節 蘭雪の警告


沈貴人の指が茶碗を持つ手にわずかに力を込めた瞬間、その動きを遮るように蘭雪の声が響いた。


「お待ちください」


室内に静寂が広がる。


皇后は微笑を崩さず、ゆっくりと蘭雪へと視線を向けた。


「またあなたなのね、蘭雪」


蘭雪は一礼しながらも、毅然とした眼差しを崩さなかった。


「沈貴人の忠誠を確かめるのは皇后様のご意向。ですが、この茶を口にすることで彼女がどのような影響を受けるのか、それを確かめずに飲ませるのは、あまりに危険ではないでしょうか?」


沈貴人は一瞬驚いたように蘭雪を見つめた。


(やはり、このお茶には何かが……)


皇后は扇を閉じ、ゆっくりと立ち上がる。


「蘭雪、あなたは本当に聡い子ね」


彼女は侍女に目配せし、茶碗を下げさせた。


「よろしい。今日のところは見逃してあげましょう」


沈貴人は安堵の息を漏らしそうになったが、すぐに表情を引き締め、深く一礼した。


「ありがとうございます、皇后様」


皇后は笑みを浮かべたまま、蘭雪に視線を戻す。


「あなたは、沈貴人を守るつもり?」


蘭雪は沈貴人の方へと一瞬視線を送り、再び皇后を見つめた。


「私は、正しくあるべきものを守るだけです」


皇后の唇がわずかに弧を描く。


「ふふ……そう」


その言葉の意味を測りかねるまま、蘭雪は沈貴人と共に紫蘭殿を後にした。


二人が歩く回廊の途中で、沈貴人が静かに口を開いた。


「……ありがとう、蘭雪」


蘭雪は沈貴人を見つめ、微笑んだ。


「気にしないで。ただ……沈貴人、これからはもっと慎重に」


沈貴人は小さく頷きながら、ふと遠くを見つめた。


(私は……これからどうすればいいの……?)


後宮の陰謀は、まだ始まったばかりだった——。





紫蘭殿を後にし、沈貴人と蘭雪は静かな回廊を歩いていた。冷たい風が吹き抜け、冬の気配を感じさせる。


沈貴人は何かを考え込むように沈黙していたが、やがて小さくため息をついた。


「皇后様のご意向に背いてしまったわ……」


蘭雪はちらりと沈貴人を見やる。


「本当に皇后様の意向だったのかしら?」


沈貴人は驚いたように蘭雪を見つめた。


「どういう意味?」


蘭雪は歩みを止め、回廊の柱にもたれる。


「皇后様は、あの場で貴方を追い詰めることもできた。でも、結局はお茶を下げたわ。それはなぜ?」


沈貴人は眉をひそめた。


「……私を試したかったのでは?」


「それだけではないと思う。もしかしたら、皇后様自身も“誰か”の意向を受けていたのかもしれない」


蘭雪の言葉に、沈貴人の表情が曇る。


「誰かの……?」


「ええ。例えば——」


蘭雪が言いかけたそのとき、回廊の先に人影が現れた。


「お二人とも、ずいぶんと深刻そうな顔をされていますね」


どこか楽しげな声音。


二人が振り向くと、そこには沈逸が立っていた。薄紫の衣をまとい、長身の彼は回廊の光の加減でいっそう端整に見える。


「沈逸……」沈貴人は驚きの声を漏らした。


蘭雪は彼をじっと見つめる。


「どうしてここに?」


沈逸は微笑を浮かべながら歩み寄った。


「風に乗って、面白い話が聞こえてきましたのでね。皇后様がお茶を振る舞われたとか、蘭雪がそれを止めたとか」


彼は沈貴人の目を覗き込むように見つめた。


「沈貴人、あなたはお気づきですか?」


沈貴人は息をのむ。


「何を……?」


沈逸はわずかに微笑を深めた。


「あなたは、すでに後宮の“盤上の駒”ではなくなりつつあるのです」


沈貴人の瞳が揺れた。


蘭雪が静かに沈逸を見つめる。


「つまり、どういうこと?」


沈逸は蘭雪の方に顔を向けると、目を細めた。


「蘭雪、あなたはとても聡い。ならば、もう理解しているでしょう?」


「——皇后様も、誰かの命を受けて動いていたということ?」


沈逸は微笑みながら、小さく頷いた。


「ええ。おそらく、その“誰か”とは——」


沈逸の言葉が途切れた瞬間、遠くで誰かの足音が響いた。


三人は一瞬、警戒するように静まり返る。


沈逸は軽く肩をすくめ、微笑んだ。


「どうやら、ここでの話はお預けのようですね」


沈貴人は不安げに沈逸を見つめた。


「沈逸、あなたは……私の味方なの?」


沈逸はその問いにすぐには答えず、代わりに彼女の髪にそっと触れた。


「さて、それはどうでしょう?」


沈貴人は息をのむ。


蘭雪は沈逸の言動を注意深く観察しながら、静かに口を開いた。


「沈逸、私たちに協力する気があるなら——」


「協力?」沈逸はくすっと笑う。


「面白い提案ですね。では、あなたの“考え”を聞かせていただけますか?」


蘭雪は沈逸の瞳をしっかりと見据えた。


「皇后様の真意を探る。それが、今後の鍵になると思う」


沈逸はしばし考え込むように目を細めた。


そして——


「ふむ、悪くない」


彼は穏やかに笑い、まるで遊びを楽しむような口調で続けた。


「では、お手並み拝見といきましょうか」


沈逸の真意とは何なのか。


蘭雪と沈貴人は、彼の言葉の裏を探るようにじっと彼を見つめた。



沈逸の余韻を残した言葉が蘭雪と沈貴人の心に影を落とす中、二人は静かに紫蘭殿から離れた。冷たい風が衣の裾を揺らし、後宮の静寂が夜の帳とともに深まっていく。


蘭雪は歩きながら考えていた。


(沈逸の言葉……「皇后様も誰かの命を受けて動いていた」……それが本当なら、皇后様は何者かの意向を汲んで沈貴人を試したということ)


それは単なる権力闘争ではなく、もっと奥深い思惑がある証拠だった。


「蘭雪……」


沈貴人が小さな声で呼ぶ。


「どうしたの?」


「私は、本当に後宮で生き残れるのかしら……?」


その不安げな声に、蘭雪は足を止めた。


「沈貴人——」


言葉を選ぼうとしたその瞬間、後方から足音が響いた。


二人が振り返ると、そこに立っていたのは皇后付きの女官だった。


「蘭雪様、沈貴人様」


「皇后様がお呼びです」


沈貴人が息をのむ。


「……今から?」


女官は静かに頷いた。


蘭雪は沈貴人に目を向け、そっと頷いた。


「行きましょう」


沈貴人の表情に不安が浮かんだが、覚悟を決めたように頷き、二人は三度び紫蘭殿へと向かった。




紫蘭殿の奥座敷は、香の煙がゆるやかに揺れ、静謐な空気に満ちていた。


皇后は帳の奥に座し、二人を迎えた。


「来ましたね」


穏やかな微笑を浮かべながら、皇后は二人を見つめる。その視線には先ほどとは違う、計り知れない何かがあった。


「沈貴人——」


皇后はゆっくりと沈貴人を見つめた。


「あなたは今日、何を学びましたか?」


沈貴人はわずかに緊張しながらも、唇を引き結び答えた。


「私は……皇后様の御心を深く考えることの大切さを知りました」


「ふふ……賢い答えですね」


皇后は静かに扇を動かし、優雅に微笑んだ。


「蘭雪」


「はい」


「あなたは、私の意図をどこまで読み取ったのかしら?」


蘭雪は皇后の言葉の裏を探りながら、一歩前へ出た。


「皇后様は、沈貴人を試したのではなく——守ろうとしたのでは?」


沈貴人が驚いて蘭雪を見る。


皇后はその言葉に、ゆるやかに目を細めた。


「……なるほど。やはり、あなたは聡い子ですね」


皇后はそっと扇を閉じると、穏やかに語り始めた。


「この後宮には、さまざまな勢力が渦巻いています」


「沈貴人が陛下の寵愛を受けることは、当然ながら目障りに思う者もいる」


沈貴人の表情が強張る。


「私が今日、お茶を振る舞ったのは——あなたがどこまで自分の立場を理解しているかを見極めるため」


蘭雪は皇后の言葉を静かに噛みしめた。


「……つまり、沈貴人に敵がいると?」


皇后は小さく頷いた。


「ええ。それも、かなり手強い敵がね」


沈貴人の指先が小さく震えた。


「……どなたが?」


皇后は沈貴人をじっと見つめる。


「それは、あなた自身が見極めるべきことです」


沈貴人は息をのむ。


皇后はふっと微笑んだ。


「あなたは、選ばれる側の者ではなく——選ぶ側の者になりなさい」


その言葉が、沈貴人の胸に深く響いた。


蘭雪もまた、その意味の重さを理解し、静かに沈貴人の手を握る。


「……肝に銘じます、皇后様」


沈貴人が深く頭を下げる。


皇后は満足げに頷くと、やがて立ち上がった。


「そろそろお戻りなさい。夜も更けてきました」


蘭雪と沈貴人は一礼し、紫蘭殿を後にした。


夜の闇が二人を包む中、沈貴人は静かに呟く。


「私は……変わらなければならないのね」


蘭雪は優しく微笑みながら、静かに頷いた。


(皇后様の背後にいる者——沈逸の言う“誰か”が気になる……)


蘭雪の中で、新たな疑念が芽生えていた。




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