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第二十九節 沈貴人の動揺

 第二十九節 沈貴人の動揺


紫蘭殿を後にした沈貴人と蘭雪は、静かに回廊を歩いていた。


沈貴人の顔にはまだ動揺が残っており、時折、こめかみに手を当てるような仕草を見せる。


「……助けてくれて、ありがとう」


沈貴人が小さく呟いた。


蘭雪は前を向いたまま、静かに言葉を返す。


「あなたがあの茶を飲んでいたら、どうなっていたと思う?」


沈貴人は足を止め、表情を曇らせた。


「……分からない。ただ、皇后様に背くことがどれほど危険かは分かっているわ」


「だからこそ、慎重にならなければならないのです」


蘭雪は優しく、しかしはっきりとした口調で続けた。


「皇后様はあなたを試したのではなく、あなたを“染めよう”としたのです。もしあの場で従っていれば、あなたは皇后様の手駒として見なされたでしょう」


沈貴人は唇を噛みしめた。


「……私は、どうすればいいの?」


その問いには、不安と迷いが滲んでいた。


蘭雪は少しだけ沈黙し、慎重に言葉を選ぶ。


「あなた自身の意志を持つことです。皇后様の影にも、陛下の寵愛にも寄りかからずに」


沈貴人は、蘭雪の言葉を噛み締めるように小さく頷いた。


その時——。


「おや、仲睦まじく歩いていらっしゃる」


二人の前に、沈逸が現れた。


白い衣を纏い、端整な顔に柔らかな笑みを浮かべている。その佇まいはどこか余裕に満ちていた。


「沈逸……?」


沈貴人は彼の姿を認めると、わずかに眉を寄せた。


「そんなに警戒しないでください、沈貴人」


沈逸は軽やかに微笑みながら、二人の前に立つ。


「先ほどの一件、私も耳にしましたよ。どうやら、蘭雪がうまく立ち回ったようですね」


「……噂になるのが早いのね」


蘭雪は静かに言った。


「ええ、後宮は狭いですから」


沈逸は冗談めかして肩をすくめると、沈貴人に目を向ける。


「沈貴人、あなたは今、非常に危うい立場にいます」


「……そんなこと、言われなくても分かっています」


「ですが、それを理解しているだけでは足りませんよ」


沈逸の声色がわずかに低くなる。


「あなたは、どうしたいのですか?」


沈貴人は沈黙した。


「皇后の庇護を求めるのか、陛下の寵愛にすがるのか。それとも——」


沈逸はわずかに微笑みながら言葉を続ける。


「蘭雪のように、自らの力で道を切り開くのか」


沈貴人の表情が揺れる。


沈逸は軽く首を傾げると、優雅に言葉を添えた。


「選ぶのはあなたです、沈貴人」


その言葉に、沈貴人は静かに息を呑んだ。


沈貴人は沈逸の言葉を噛み締めるように黙り込んだ。


(私は……どうしたいの?)


皇后の庇護を受ければ、後宮での立場は安定するかもしれない。だが、それは皇后の意向一つで捨てられる危険な道でもある。

陛下の寵愛にすがるのは、さらに不安定だ。ほんの一時の寵愛にすぎず、いつ失われるか分からない。


では——。


「……私は」


沈貴人が口を開いた瞬間、遠くから侍女が駆け寄ってきた。


「沈貴人様!  急ぎの伝言がございます!」


沈貴人は表情を引き締める。


「何かあったの?」


侍女は息を整えながら言った。


「皇后様が、再び貴人様をお呼びです。至急、紫蘭殿へお越しくださいと」


沈貴人の手が微かに強張る。


「……また、皇后様が?」


沈逸は微笑を保ったまま、沈貴人の様子を観察するように目を細めた。


「さあ、どうします?」


沈貴人は迷いながらも、ゆっくりと息を吐く。


そして、蘭雪に視線を向けた。


「蘭雪……あなたなら、どうする?」


蘭雪は少しの間、沈貴人を見つめ、静かに答えた。


「私なら、皇后様に従うふりをして、真意を探るでしょう」


沈貴人は驚いたように目を見開く。


「従うふり……?」


「ええ。でも、本当に飲み込まれてしまってはだめです」


蘭雪は慎重な口調で続ける。


「皇后様があなたを試すのは、きっと今回が最後ではありません。今は、表面上は従いながら、自分の立場を守る方法を探るべきです」


沈貴人は蘭雪の言葉を反芻し、やがて小さく頷いた。


「……分かったわ」


沈逸は満足げに笑い、軽く肩をすくめた。


「では、見事に乗りこなしてきてください。皇后様の気まぐれという馬をね」


沈貴人は軽く息を整え、侍女に向かって頷いた。


「案内してちょうだい」


そして、彼女は紫蘭殿へと向かって歩き出した——。


***



沈貴人が紫蘭殿に足を踏み入れると、先ほどと変わらぬ静寂が広がっていた。だが、それがかえって彼女の緊張を煽る。


(また、試されるのかしら……)


奥の間へと通されると、皇后はすでに席に着いていた。傍らには侍女が控え、手には先ほどと同じように茶碗が載った銀盆を持っている。


「お待ちしておりました、沈貴人」


皇后の声は穏やかだったが、どこか探るような響きを帯びていた。


沈貴人は深く一礼し、慎重に口を開く。


「皇后様がお呼びとのこと、恐れ入ります」


皇后は優雅に扇を開きながら、微笑んだ。


「先ほどの件、あなたはどう考えたかしら?」


「……」


沈貴人は慎重に言葉を選びながら答える。


「皇后様の御心を測ることはかないません。ただ、私はこの後宮で生きるために、どの道を選ぶべきかを考えておりました」


皇后はその答えに満足したように微笑し、指先で扇を軽く動かした。


「それで、答えは出たの?」


沈貴人は一瞬迷ったが、やがて静かに頷いた。


「私は……皇后様に忠誠を尽くすべきだと考えました」


皇后の目がわずかに細まる。


「……本心かしら?」


沈貴人の背筋に冷たい汗が滲む。


(皇后様は私を試している……)


しかし、ここで怯んではならない。沈貴人は意を決し、静かに言葉を続けた。


「皇后様の御加護なくして、私の未来はありません。陛下の寵愛は移ろいやすく、それだけに頼るのは危険です。ですが、皇后様のもとでなら、私は……」


「ふふ……よく分かっているようね」


皇后はゆっくりと茶碗を指し示した。


「ならば、このお茶を飲みなさい」


沈貴人の指が微かに震える。


(また、この茶……)


沈貴人は茶碗を手に取ると、一瞬だけ香りを確かめた。


(さっきのものと同じ……だけど、わずかに香りが違う?)


不審に思いながらも、彼女は決意を固め、ゆっくりと口元へ運んだ——。


しかし——。


「お待ちください」


柔らかくもはっきりとした声が、沈貴人の動きを止めた。


振り向くと、そこには蘭雪がいた。


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