第二十八節 蘭雪の決意
第二十八節 蘭雪の決意
夜の帳が降りる頃、翡翠殿の一室で蘭雪は沈貴人からの報告を聞いていた。
「皇后は私に簪を授けました。麗妃が身につけていたものだと……」
蘭雪は簪を手に取り、指先で滑らかな玉の感触を確かめた。
麗妃——かつて慶成帝の寵愛を受けながらも、突然命を落とした女性。
(皇后がこの簪を沈貴人に与えた理由……)
それは、沈貴人に何らかの役割を期待しているからに違いない。
蘭雪は慎重に口を開いた。
「皇后は、貴女を試しているのかもしれません」
沈貴人は静かに頷く。
「私もそう思います。けれど、皇后様が何をお望みなのか、まだはっきりとは……」
蘭雪は目を細めた。
(皇后が本当に沈貴人を守ろうとしているなら、何かしらの“策”があるはず)
「沈貴人、しばらくは皇后様のそばに仕えて、様子を伺うべきかと」
「陛下との距離を適度に保ちつつ、皇后の意図を探る——それが、今できる最善の策です」
沈貴人は、蘭雪の言葉に迷いを見せながらも、最後には深く頷いた。
「……わかりました」
蘭雪は沈貴人の決意を確認すると、そっと簪を彼女の手に戻した。
「これは、皇后様からの“鍵”かもしれません。慎重に扱うことね」
沈貴人は簪を大切に包み込み、深く息をついた。
(皇后の思惑……それがはっきりするまで、私たちは慎重に動かなければならない)
蘭雪は静かに夜空を仰いだ。
(嵐の前の静けさ——)
この後宮で、またひとつ、大きな駆け引きが始まろうとしていた。
翌日、沈貴人は蘭雪を伴い皇后のもとへと足を運んだ。
紫蘭殿の庭園には朝露がきらめき、静けさの中に張り詰めた空気が漂っていた。
「皇后様、沈貴人にございます」
帳の奥に座す皇后は、沈貴人の姿を見て微かに微笑んだ。
「来ましたね。昨日の簪、大切にしているかしら?」
沈貴人は膝をつき、慎重に答えた。
「はい。皇后様のお心遣い、深く感謝しております」
皇后は満足げに頷き、そばに控えていた侍女に目を向ける。
「準備を」
侍女が静かにうなずき、奥の部屋へと消えていく。
(準備? 何を……)
沈貴人が考える間もなく、侍女が戻ってきた。その手には、銀の盆に載せられた一杯の茶があった。
「これは……?」
皇后は穏やかな表情を崩さぬまま、沈貴人を見つめる。
「このお茶を飲みなさい」
沈貴人の指先が微かに強張る。
(これは試練——皇后様が私を試そうとしている)
茶碗に目を落とすと、仄かに香る菊の匂い。しかし、それだけではない。
(何かが混ざっている……)
沈貴人は、慎重に茶を手に取り、口元に運んだ。
その瞬間——。
「やめなて!」
帳の外から、鋭い声が響いた。
沈貴人が驚いて振り返ると、そこには——蘭雪の姿があった。
蘭雪の声が響いた瞬間、室内の空気が張り詰めた。
沈貴人は驚きに目を見開き、皇后は穏やかな笑みを浮かべたまま、静かに蘭雪を見つめた。
「蘭雪……?」沈貴人が思わず口にする。
蘭雪はゆっくりと部屋へ歩みを進め、沈貴人の前に立つと、茶碗に目を落とした。
「皇后様、これはどういうことでしょう?」
皇后は微笑を崩さず、優雅に扇を広げる。
「これは、沈貴人にとって必要な試練です」
蘭雪は茶の香りを嗅ぎ、その成分を素早く分析した。
(菊、陳皮、蓮心……そして、ごく微量の何かが混ざっている)
「皇后様、このお茶には何が入っているのですか?」
「——あなたなら、もう分かっているでしょう?」
蘭雪は皇后の言葉に僅かに目を細めた。
確かに毒ではない。だが、何らかの作用を及ぼすものであることは間違いない。
(これは、沈貴人の忠誠を試している……? それとも、彼女の身体に影響を与えるためのもの?)
蘭雪は沈貴人に視線を向けた。
「沈貴人、このお茶を飲む必要はありません」
「しかし……皇后様が——」
沈貴人の声には迷いがあった。
皇后に背くことがどれほどの意味を持つのか、彼女は理解している。
その沈黙を破ったのは——皇后自身だった。
「ふふ……面白いわ」
皇后は扇を閉じ、蘭雪をじっと見つめた。
「あなたがここに来ることも、沈貴人を庇うことも、すべて予想の範囲内です」
「では、あなたはこのお茶の意味をどう解釈するのかしら?」
蘭雪は静かに息を整え、毅然と言い放った。
「これは試練ではなく、“選別”です」
「沈貴人が皇后様に忠誠を誓うに値するかを見極めるための」
皇后の目が僅かに細まる。
「……続けなさい」
蘭雪は一歩前へ進み、沈貴人の手を優しく取った。
「皇后様、沈貴人はすでに陛下の寵愛を受けています。それは、この後宮で彼女が生き残るために不可欠なことです」
「ですが、この茶を飲むということは、それを放棄する可能性も孕んでいる」
「沈貴人を“皇后の側の人間”として染めるための、一歩……そうではありませんか?」
室内に沈黙が落ちた。
やがて——皇后は微かに笑った。
「流石ね、蘭雪」
彼女は優雅に立ち上がり、侍女に命じて茶を下げさせた。
「沈貴人、今日のところはこのままお帰りなさい」
沈貴人は僅かに困惑した表情を浮かべたが、蘭雪に促され、ゆっくりと立ち上がる。
そして——蘭雪は最後に皇后へと向き直った。
「皇后様、どうかお忘れなきよう」
「沈貴人が選ぶべきは、陛下と皇后様のどちらでもなく——彼女自身の未来です」
皇后は一瞬、何かを思案するように蘭雪を見つめた。
そして、再び扇を広げ、微笑んだ。
「……覚えておくわ」
蘭雪は深く一礼し、沈貴人とともに紫蘭殿を後にした。
(皇后は本当に味方なのか、それとも……)
後宮の闇は、なおも深いままだった——。




