第二十七節 蘭雪の策
第二十七節 蘭雪の策
沈貴人が皇后の信頼を得た——。
その知らせは、翡翠殿にもたらされた。
蘭雪は文を受け取りながら、静かに目を細める。
(……沈貴人は、試練を乗り越えたのね)
思った通り、彼女は機転を利かせ、皇后の問いに適切に答えた。
「雲水の舞」は、ただの美しい舞ではない。
それは後宮に生きる者の運命の象徴でもある。
——決して交わらぬもの。
——求めても届かぬもの。
沈貴人は、その意味を正しく理解し、皇后の前で見事に示したのだ。
蘭雪は筆を取り、短く返事を書く。
「よくやった」
しかし、これで終わりではない。
(次に動くのは、こちらの番……)
沈貴人が皇后の目に留まった今、彼女をどう活かすかが重要だった。
蘭雪は机の上の文を見つめ、次の手を考える。
沈貴人の昇進を狙うか?
それとも、彼女を使って皇后の側近たちに働きかけるか?
選択を誤れば、全てが水泡に帰す。
蘭雪は深く息を吐いた。
勝負は、ここからだ。
***
「よくやった」
沈貴人が蘭雪からの文を読んだとき、心の奥底に安堵が広がるのを感じた。
(私の答えは間違っていなかった……)
しかし、喜んでばかりもいられない。
皇后の前で舞いを披露し、彼女の信頼を得たことで、沈貴人の立場は確実に変わった。
だが、それは同時に——より厳しい目を向けられるということでもある。
「沈貴人、皇后様がお呼びです」
侍女の言葉に、沈貴人は驚きつつも表情を崩さなかった。
「すぐに参ります」
紫蘭殿——皇后の居所。
沈貴人は静かに跪き、礼を尽くす。
皇后は、以前と変わらぬ穏やかな微笑を浮かべていた。
「沈貴人、昨日の舞、とても見事でした」
「お褒めにあずかり光栄です」
皇后はゆっくりと沈貴人を見つめ、ふと視線を逸らした。
「あなたは、麗妃のことをどれほど知っているのかしら?」
沈貴人の背筋が、わずかにこわばる。
(……試されている)
昨日の舞を踊った以上、この質問が来ることは予想していた。
沈貴人は慎重に答えを選ぶ。
「麗妃様は、慶成帝に深く寵愛された方と聞いております」
「……それだけ?」
皇后の声に、沈貴人は内心で息を呑んだ。
(この問いは、単なる興味ではない……)
皇后は何かを知っている。
沈貴人は、さらに言葉を継ぐ。
「——しかし、寵愛を受けながらも、決してお傍にいられることのなかったお方」
皇后の指が、茶碗の縁をなぞる。
「あなた、少し賢すぎるわね」
その声は、まるで試すような響きを持っていた。
沈貴人は微かに頭を下げる。
「恐れ多いことでございます」
皇后は沈黙し、しばらくの間、沈貴人を見つめていた。
やがて、彼女はそっと微笑む。
「……気に入ったわ」
沈貴人の胸が、わずかに高鳴った。
(皇后が、私を側に置こうとしている……?)
しかし、それは同時に蘭雪の計略が動き出す時でもあった。
沈貴人は密かに息を整える。
(蘭雪様、私はこの機を生かしてみせます——)
沈貴人が皇后の信頼を得たという報せが、翡翠殿へと届いた。
蘭雪は静かに文を読み、その内容を慎重に吟味する。
(皇后が沈貴人を気に入った……それはつまり、彼女を手元に置く意志があるということ)
しかし、それが単なる気まぐれなのか、それとも何か意図があるのかはまだわからない。
蘭雪は机に肘をつき、そっと目を閉じる。
(——皇后の目的は何?)
沈貴人を引き立てることで、何を得ようとしているのか。
この後宮において、皇后は単なる装飾品ではない。
彼女は、皇帝の正妃であり、宮廷の秩序を守る役割を担っている。
(……沈貴人を味方に引き入れることで、皇后は何を動かそうとしているの?)
沈貴人は舞を披露した。
「雲水の舞」——交わらぬ運命を象徴する舞を。
それに皇后が関心を示したということは……。
蘭雪は、はっと目を開く。
(——沈貴人を、皇帝から遠ざけようとしている?)
もし、皇后が沈貴人に目をかけるようになれば、彼女は自然と皇后の周囲で仕えることになる。
つまり、沈貴人は皇帝の寵愛を受ける立場から外れる可能性がある。
(皇后は、沈貴人を守るつもりなのか……? それとも、単に後宮の秩序を守るために動いているのか……?)
いずれにせよ、これは蘭雪にとっても利用できる機会だった。
蘭雪は筆を取り、沈貴人に短い文をしたためる。
「皇后のもとで、己の役割をよく見極めて下さい」
沈貴人がどのように動くかで、次の一手が決まる。
蘭雪は静かに筆を置き、そっと息を吐いた。
(——皇后の意図が見えるまで、私は慎重に動くべきね)
***
沈貴人は皇后のもとに呼ばれた。
紫蘭殿の静寂の中、香炉から立ち昇る沈香がゆっくりと空気に溶けていく。
皇后は帳の奥に座り、沈貴人に視線を向ける。その目には、昨日とは違う鋭さがあった。
「沈貴人、あなたは賢い方ね」
沈貴人は慎重に跪き、深く頭を垂れた。
「身に余るお言葉でございます」
「……後宮で生き残るために、どれほどの知恵が必要か、あなたはよく知っているはず」
皇后の声は静かだったが、その一言一言が重く響いた。
沈貴人は、ゆっくりと顔を上げる。
「陛下に寵愛されることが、必ずしも幸福につながるとは限りません」
沈貴人は息を呑んだ。
(これは……暗に、陛下の寵愛を求めるなと言っているのか?)
皇后は微笑みながらも、その目は鋭く沈貴人を見据えていた。
「あなたが聡明であることは、私もよく分かっています。だからこそ、忠告しておきます」
「——余計な野心は持たないことです」
沈貴人の背筋に冷たい汗が流れる。
皇后は何を知っているのか。
蘭雪との関係に気づいているのか——。
沈貴人は慎重に言葉を選び、静かに答えた。
「私は、陛下のおそばに仕えることができるだけで十分でございます」
皇后は微かに微笑み、沈貴人の言葉の真意を測るようにしばらく沈黙した。
やがて、帳の向こうから侍女が進み出る。
「沈貴人、皇后様より贈り物でございます」
差し出されたのは、精緻な彫りの施された玉の簪。
沈貴人はそれを受け取りながら、皇后の意図を探る。
「それは、かつて麗妃が身につけていたものです」
皇后の声が静かに響いた。
沈貴人は驚きを隠しながら、深く頭を下げる。
「恐れ多いことでございます……」
「あなたが、その意味を理解できる人であることを願っています」
皇后の言葉には、明らかな含みがあった。
沈貴人は簪を握りしめ、静かに答えた。
「このご恩は、生涯忘れません」
皇后は何も言わず、ただ微笑むだけだった。




