第二節 試される才
第二節 試される才
芙蓉殿の中央には、磨き上げられた白玉の床が広がっていた。
そこに集められた新入りの妃嬪たちは、皆それぞれの思惑を抱きながら、これから始まる試練を待っていた。
蘭雪の隣では、李如蘭が扇を軽く揺らしながら優雅に佇んでいる。
「そろそろ始まるみたいね」
彼女の言葉とほぼ同時に、一人の女官 がゆっくりと前に進み出た。
彼女は沈昭容。
今の皇后に仕える側近の女官であり、宮中でも強い影響力を持つ人物の一人だった。
「皆様、ようこそ芙蓉殿へ。ここは、後宮に入った者がまず礼儀作法を学ぶ場でございます」
沈昭容は冷静な口調で言葉を続けた。
「しかし、それだけではございません。ここでの振る舞い一つで、今後の立場が決まることもございます。皆様も、気を引き締めて臨んでくださいませ」
その言葉に、妃嬪たちの間に緊張が走る。
(つまり、これは「単なる教育」ではなく、「試練」……)
蘭雪は静かに息を整えた。
「では、さっそく始めましょう。本日は、皆様の才を試させていただきます」
「才……?」
小声で囁き合う妃嬪たち。
沈昭容は続けた。
「後宮に生きる者として、詩文や書の心得は不可欠。まずは、それぞれの文才を見せていただきましょう」
(なるほど……これは、序列を決めるための試験ね)
後宮では、皇帝の寵愛を得るだけでなく、教養や才能 もまた、立場を左右する重要な要素だった。
「皆様には、それぞれ紙と筆が配られます。この場で詩を詠み、書に認めていただきます」
侍女たちが手際よく硯と筆を並べていく。
「題は——『春望』といたします」
沈昭容が告げると、場の空気が変わった。
(『春望』……春の景色を詠みながら、そこに何を込めるか)
春の美しさを讃えるのか。
それとも、望郷の情を込めるのか——。
妃嬪たちは、それぞれ筆を執り、紙に向かう。
蘭雪もまた、静かに目を閉じ、一息置いてから筆を走らせた。
「時間は半刻ほど。皆様、存分に腕を振るわれませ」
沈昭容の声が響く中、静かな筆の音だけが芙蓉殿を満たしていった——。
墨の香りが漂う中、蘭雪は筆を走らせた。
(『春望』……春の景色を詠む題だが、ここで単なる美辞麗句を並べても意味はない)
後宮において詩とは、言葉の技巧 だけでなく、その奥に込められた意図 が何よりも重要だった。
春を讃えるか、別れの憂いを詠むか——それとも、別の何かを込めるか。
蘭雪は、一度筆を止め、周囲を見渡した。
李如蘭 は、余裕の微笑を浮かべながら書を認めている。
(彼女は、どんな詩を詠むのかしら……?)
それぞれの妃嬪たちが思い思いに詩を詠む中、やがて沈昭容が静かに告げた。
「——お時間です。筆を置いてください」
侍女たちが一人ずつ紙を回収し、沈昭容のもとへと運ぶ。
「では、数名の方にご披露いただきましょう」
沈昭容は端から順に詩を手に取り、冷静に選び取っていく。
そして、まず一人目として、李如蘭の詩 が読み上げられた。
「柳絮は風に舞い、花は枝に佇む」
「春は巡りて芳し、けれど誰がこの美を留めん」
会場に、かすかな感嘆の声が広がった。
「……見事な詩ですね。如蘭様は、春の儚さと美を巧みに詠まれております」
沈昭容が微かに頷くと、李如蘭は優雅に一礼した。
(確かに、春の美しさを詠みながら、それが長く続かぬことを惜しむ……上品で、洗練された詩ね)
(けれど、それだけではない……)
蘭雪は気づいた。
李如蘭の詩の裏には、「美しさは留められない」 という意味が込められている。
それはつまり、皇帝の寵愛の移ろいやすさ をも示唆しているのではないか——?
(……うまいわね)
そして次に、沈昭容が手に取ったのは——蘭雪の詩 だった。
「次は……蘭雪様の詩を披露いたします」
蘭雪は静かに立ち上がり、沈昭容の口から自らの詩が読み上げられるのを待った。
「春風そよぎて、花は微笑む」
「されど嵐来たらば、いずれは落ちん」
「咲くときに咲き、散るときに散るこそ、花の誇りならん」
沈昭容が詩を読み終えた瞬間、会場に微妙な沈黙が流れた。
そして、次第にそれはざわめきへと変わっていく。
「……これは」
沈昭容がわずかに目を細めた。
「春の移ろいを詠みながらも、儚さを嘆くのではなく、あるがままを受け入れ、それを誇りとする詩」
李如蘭の詩とは対照的に、蘭雪の詩は「変化を恐れず、受け入れることの強さ」を詠んでいた。
「興味深い詩ですね。これは、『運命を受け入れ、しなやかに生きる覚悟』を詠んだものと解釈できます」
沈昭容がそう評した瞬間、再び場がざわめいた。
「確かに、見事な詩です……」
「けれど、あまりにも率直ではなくて?」
「後宮で生きる者として、この詩は……」
ざわざわとささやき合う妃嬪たち。
李如蘭は扇を閉じ、蘭雪を見つめた。
「面白い詩ね、蘭雪様」
「私の詩とは、まるで反対の解釈をなさったのね?」
その声音は、まるで試すような響きを帯びていた。
蘭雪は、ふっと微笑む。
「春をどう詠むかは、人それぞれですもの」
「如蘭様の詩は、美しさを讃え、惜しむもの……けれど、私はそれを惜しむよりも、移ろいゆくことの美しさを詠みたかったのです」
李如蘭は目を細め、何かを考えるように沈黙した。
やがて、沈昭容が口を開いた。
「どちらも、それぞれの解釈に価値がございます」
「本日の詩の試練——勝者は定めませんが、蘭雪様の詩は後宮には珍しいもの でした」
「これは、吉と出るか、それとも——」
沈昭容は意味ありげに言葉を切る。
(つまり、この詩は「注目される」ということね)
それが、後宮で生きる上で吉と出るか凶と出るか——それは、まだ分からない。
蘭雪は静かに、しかし確かな手応えを感じながら席に戻った。
——詩の勝負は、終わった。
けれど、これは後宮での戦いの始まりにすぎない。




