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第二十六節 皇后の側仕え

 第二十六節 皇后の側仕え


沈貴人が皇后付きの舞姫から稽古を受けることになった翌日、翡翠殿では早朝から侍女たちが慌ただしく動いていた。


蘭雪は控えの間で沈貴人を見つめながら、静かに考えていた。


(……皇后様のもとで稽古を受けるということは、表向きは寵愛を受けたかのように見えるけれど、実際は違う)


皇后の身辺に近づけば近づくほど、動きは制限される。

そして、皇后の信頼を得るか、それとも見限られるかの試練が始まる。


「……蘭雪?」


沈貴人の声に、蘭雪は顔を上げた。


「私がいなくても、翡翠殿を頼むわね」


沈貴人は穏やかに微笑んでいたが、その表情の奥には微かな緊張が滲んでいた。


「もちろんです、お嬢様」


蘭雪は静かに頭を下げた。


沈貴人の背筋が伸び、歩く姿はどこまでも気高かった。


(皇后様の御前で、沈貴人様はどこまで立ち回れるのか……)


蘭雪は密かに拳を握りしめた。


この後宮で生き残るためには、ただ従順でいるだけでは足りない。

時に策略を巡らせ、時に己を偽ることも必要——。


沈貴人の試練が始まると同時に、蘭雪自身も新たな一手を打つべき時が来ていた。





沈貴人が皇后のもとへ向かったその日、蘭雪は翡翠殿の一角で静かに書を広げていた。


表向きは沈貴人の留守を預かる侍女の一人に過ぎないが、彼女の頭の中ではすでにいくつかの策が巡っていた。


(沈貴人様が皇后様の御前でどのような扱いを受けるか、それによって私の次の動きも変わる)


後宮において、皇后の近くに仕えるということは名誉であると同時に危険でもある。

皇后の信頼を得られれば栄達への道が開けるが、一度でも失策すれば、容赦なく追放される可能性もあるのだ。


(沈貴人様の立場を安泰にするためには、何としても皇后様の寵愛を得る必要がある)


そのためには、皇后の意向を探り、適切な対応をすることが不可欠だった。




その頃、紫蘭殿——皇后の住まう宮では、沈貴人が膝をついていた。


目の前には、端然と座す皇后。


「——沈貴人と申します。本日より、御前にて稽古を賜ります」


沈貴人は礼を尽くしながらも、堂々とした声音で口上を述べた。


皇后はじっと沈貴人を見つめた後、ふっと微笑んだ。


「……よく参りました。あなたの舞、楽しみにしておりますよ」


その声音は穏やかだったが、沈貴人はすぐに察した。


(試されている——)


皇后はただ舞を見たいのではない。


どこまで自分を役立てる人間かを測ろうとしているのだ。


沈貴人は息を整え、静かに舞の構えを取った。


(ここが、勝負どころ……!)


静寂の中、沈貴人の袖がゆるやかに舞い始めた——。


沈貴人は静かに息を整え、足を踏み出した。


袖がふわりと舞い上がり、流れるような動きが始まる。


(集中しなければ——)


皇后の前で舞うということは、単なる芸の披露ではない。


それは、皇后の審判を受けるということ。


皇后の目が、沈貴人の一挙手一投足を細かく追っているのを感じた。




紫蘭殿の一角では、侍女たちが静かに見守っていた。


「沈貴人様はお美しいですね……」


「ええ、それに……あの舞い方……」


囁き交わされる声に混じって、一人の年配の女官がふと呟いた。


「……どこかで見たことがある舞だ」


その言葉に、周囲の侍女たちは一瞬顔を見合わせた。


沈貴人が踊っているのは、「雲水の舞」——かつて、皇帝が最も寵愛した麗妃が得意としていた舞だった。


皇后の表情は変わらない。


しかし、沈貴人はその沈黙の中に、確かな圧力を感じていた。


(皇后様は、何を思っておられるの……?)


それでも、舞い続けるしかない。


この舞が、沈貴人の運命を決めるのだから——。





沈貴人の舞が、最後の一歩で静かに終わった。


広がった袖がふわりと揺れ、まるで空気の流れまでを操るかのようだった。


沈貴人は深く一礼し、静かに息を整える。


紫蘭殿は、しんと静まり返っていた。


(……反応がない)


舞い終えた後、すぐに称賛の声が上がることもある。


しかし、皇后は何も言わない。


その沈黙が、沈貴人の背に冷や汗を伝わせた。




長い沈黙の後、皇后はゆっくりと口を開いた。


「——見事な舞でした」


声は穏やかだったが、その響きには感情が読めない。


「雲水の舞。かつて麗妃が得意としていたものですね」


沈貴人は心臓が跳ねるのを感じた。


やはり気づかれた——。


「この舞を、どこで習いました?」


皇后の声は淡々としていたが、その瞳にはわずかに鋭さが宿っていた。


沈貴人は一瞬迷ったが、すぐに答える。


「子供の頃、書物で見たものを独学で学びました」


嘘ではない。実際に舞の記録を読み、何度も練習したのは事実だ。


しかし、それを皇后がどう受け取るか——。


皇后はじっと沈貴人を見つめていたが、やがてふっと微笑んだ。


「そう。あなた、なかなか面白い方ね」


「ありがとうございます」


沈貴人は慎重に礼をする。


(……どうやら、悪い印象は持たれなかったようね)


ほっとしたのも束の間、皇后は続けた。


「では、この舞の本当の意味は?」


沈貴人は、息をのんだ。


(……本当の意味?)


それは、単なる舞の技術を問うのではない。


皇后は、沈貴人がどれほど深く後宮のことを理解しているのか試しているのだ。


沈貴人はゆっくりと口を開く。


「——この舞は、慈愛と悲哀の舞でございます」


皇后の微笑みが、わずかに深くなった。


「続けなさい」


試されている。


沈貴人は静かに息を吸い、言葉を紡ぐ。


「雲水とは、空と水——決して交わらぬもの。かつて麗妃様がこの舞を好まれたのは、皇帝陛下との関係を象徴していたからではないでしょうか」


「求めても手が届かない、しかし離れることもできない」


「——まるで、雲と水のように」


紫蘭殿に、また静寂が訪れる。


やがて、皇后はふっと目を細めた。


「なるほど……あなた、本当に面白い方ね」


沈貴人は、ようやく確信した。


——皇后は、彼女を認めたのだ。



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