第二十五節 皇后の御前にて
第二十五節 皇后の御前にて
御花宴が終わり、夜の帳が静かに後宮を包み始めた頃——。
沈貴人は、皇后の招きに応じて長楽宮へと向かっていた。
蘭雪もまた、侍女としてその場に同行している。
(皇后様が直々にお呼びになるのは、めったにないこと……)
沈貴人の演奏は確かに皇后の心を動かした。だが、それだけで終わるとは思えない。
皇后が何を考えているのか、それを見極めねばならない。
長楽宮の奥、広々とした清和殿。
皇后は、静かに座して沈貴人を待っていた。
傍らには、信頼する尚宮と宦官長・魏尚の姿。
沈貴人が慎重に跪き、恭しく頭を下げる。
「皇后様、ご招きに預かり光栄に存じます」
「……顔を上げなさい」
沈貴人がゆっくりと顔を上げると、皇后の鋭い眼差しが彼女を見つめていた。
「今宵の演奏、確かに心に響きました」
「ありがたき幸せにございます」
「だが——」
皇后の声が、僅かに低くなる。
「そなたは、なぜあの曲を選んだのか。本当に、ただの偶然かしら?」
沈貴人は、一瞬だけ息を呑んだ。
皇后の瞳には、ただの妃嬪を試す以上の何かがある。
(……やはり、皇后様は鋭い)
沈貴人は、慎重に言葉を選んだ。
「この後宮に参ったときより、私は皇后様の御威光を仰ぎ見ておりました。御花宴の折、皇后様におかれましても、過去の思い出を偲ばれることがあるのではと思い……」
皇后は、じっと沈貴人の言葉を聞いていた。
そして——。
「……その心がけは、悪くないわね」
沈貴人が、そっと息を吐いた。
皇后は、微かに笑みを浮かべる。
「そなた、舞の心得はあるの?」
沈貴人は、皇后の問いに一瞬の間を置いた。
(舞……? 何故、突然そんなことをお尋ねになるの……?)
後宮において、妃嬪が舞を披露する機会は少なくない。しかし、それはただの娯楽ではない。時に、権力闘争の場にもなる。
沈貴人は慎重に言葉を選びながら、静かに答えた。
「……若き頃、家で少々、舞の手ほどきを受けたことがございます」
皇后は微かに唇を歪めた。
「少々、ね……。ならば、見せてもらいましょう」
沈貴人の背筋が僅かに強張る。
(やはり……これは試されている)
蘭雪もまた、沈貴人の横顔を見つめながら考えていた。
(皇后様は、沈貴人の何を確かめようとしているの……?)
この場での舞は、単なる芸ではない。もし皇后の気に入らなければ、それだけで沈貴人の立場は危うくなる。
——しかし、沈貴人はすぐに静かに立ち上がり、衣の裾を整えた。
「……畏まりました」
皇后が手を軽く叩くと、奥から奏楽の者が数人呼ばれる。静かに流れる楽の音。
沈貴人は、深く一礼し、静かに動き始めた——。
沈貴人の舞は、華やかではない。
けれども、流れるように滑らかで、余計な動きがない。
しなやかな手の動き、柔らかな足運び。まるで夜に咲く白蓮のような、静かで上品な舞。
蘭雪は、それを見て直感した。
(……この舞、単なる即興ではない)
沈貴人は、長く舞を習っていたはずだ。
それを「少々」と答えたのは、実力を隠していたから——あるいは、皇后の反応を探るため。
皇后は、沈貴人の舞をじっと見つめていた。
魏尚もまた、薄く微笑みながら沈貴人の動きを見守っている。
(……これは、沈貴人にとっての転機になる)
蘭雪は、沈貴人の舞が終わるのを、じっと見届けた——。
沈貴人が最後の一歩を踏み、深く礼をした時、殿内には静寂が訪れた。
皇后は、沈貴人を見つめたまま、ゆっくりと口を開く。
「——なるほど。なかなかのものね」
沈貴人は、深く頭を垂れたまま、皇后の次の言葉を待つ。
「そなたの舞は、慎ましく、華美ではない。だが、その奥には確かな芯がある」
皇后の瞳が僅かに細められる。
「そなた、私のために舞を習ってみる気はある?」
沈貴人が、そっと顔を上げた。
(……これは、つまり)
「ありがたきお言葉にございます」
沈貴人がそう答えた瞬間、皇后は静かに微笑んだ。
「よろしい。では、明日より私付きの舞姫に稽古をつけさせましょう」
蘭雪は、そのやりとりを見ていた。
(沈貴人を、皇后様の側近くに置くおつもり……?)
沈貴人は、皇后の寵愛を得つつある。だが、それは同時に皇后の監視下に置かれることを意味する。
魏尚もまた、沈貴人を一瞥しながら、何かを思案しているようだった。
この場にいる全員が、それぞれの思惑を抱えながら、沈貴人の新たな試練を見届けていた——。




