第二十四節 御花宴の幕開け
第二十四節 御花宴の幕開け
御花宴——それは、年に数度、皇后の主催で開かれる後宮最大の雅宴である。
各殿の妃嬪たちが競うように華やかな衣を纏い、詩歌を詠み、楽器を奏で、才を披露する場。
しかし、その実態は単なる宴ではない。
皇后の寵愛を得るための戦場。
誰が皇后の目に留まるのか、誰が失策を犯し評判を落とすのか——妃嬪たちにとっては、己の立場をかけた熾烈な駆け引きの場でもあった。
(沈貴人の目的は、皇后様に拝謁し、その信頼を得ること)
そのためには、宴の中で皇后の目に留まり、確かな印象を残さねばならない。
蘭雪は静かに沈貴人を見つめた。
「御花宴には、多くの妃嬪方が集います。その中で際立つには、ただ琴を弾くだけでは不十分です」
「……ええ、分かっています」
沈貴人は軽く息をつきながら、そっと指先を組んだ。
「私は、皇后様に“お願いがある”ということを、どうにかして伝えたいのです」
「では、演奏だけでなく……言葉を添えるのがよいでしょう」
「言葉?」
蘭雪は静かに頷く。
「たとえば、皇后様を讃える詩を詠み、その中でご自身の願いを織り交ぜるのです」
「詩を……」
沈貴人はしばし考え込み、やがて決意を固めたように頷いた。
「分かったわ。私、詩も用意します」
蘭雪は微笑んだ。
「その詩が皇后様の心に届けば、きっと拝謁の機会が得られるはず」
***
そして——宴の日が訪れた。
御花宴は、御花園と呼ばれる広大な庭園にて催される。
色とりどりの牡丹が咲き誇り、香が風に舞う中、妃嬪たちは各々美しい衣装に身を包んで集っていた。
蘭雪もまた、沈貴人に付き従いながら、慎重に周囲を観察していた。
(すでに多くの者が視線を交わし、密やかな駆け引きを始めている)
そこには——葉貴妃の姿もあった。
皇帝の寵愛厚く、後宮の実質的な権勢を握る女。
彼女は、一見穏やかな笑みを浮かべながらも、その背後に冷ややかな威圧を秘めていた。
「まぁ、沈貴人。今日はずいぶんと華やかな装いですね」
葉貴妃の言葉に、沈貴人は軽く頭を下げる。
「お褒めに預かり光栄です、葉貴妃様」
「……ふふ、楽しみにしていますわ。あなたの“演奏”を」
その言葉の裏に、どんな意図が隠されているのか。
(葉貴妃が沈貴人の動きを警戒している……?)
蘭雪は静かに様子を見守る。
そして、宴の進行を告げる太鼓の音が響いた。
皇后が、ゆったりとした歩みで御簾の奥から姿を現す。
静寂が広がる。
後宮の頂点に君臨する皇后の威厳が、その場を支配していた。
「皆の者、宴を楽しみなさい」
皇后の一声が下り、御花宴が幕を開ける。
沈貴人の“演奏”の時が迫っていた——。
御花宴が始まり、妃嬪たちは各々の才を披露し始めた。
舞を舞う者、詩を詠む者、琴を奏でる者——それぞれが美しさと気品を競い合う。
しかし、沈貴人の番が近づくにつれ、蘭雪の胸には一抹の不安がよぎった。
(沈貴人の琴の腕は確か……だが、それだけでは皇后様の目を引くには足りないかもしれない)
皇后は、ただ美しい音楽を求めているわけではない。
後宮を治める女帝として、その背後にある意図を見抜き、評価するはず。
(沈貴人は、琴の音にどんな思いを込めるのか——)
***
「次は、沈貴人の演奏です」
宦官の声が響くと、会場の視線が一斉に沈貴人へと集まった。
彼女は、静かに席を立ち、中央の舞台へと歩を進める。
華やかな衣の裾を引き、姿勢を正して琴の前に座るその姿には、一分の隙もなかった。
(大丈夫……沈貴人なら、やり遂げるはず)
蘭雪は、そっと息を整えた。
沈貴人の指が、ゆっくりと琴の弦に触れる。
そして——。
静寂の中、最初の音が紡がれた。
その音色は、透き通るように澄んでいた。
穏やかで、どこか懐かしい旋律。
春の陽のように暖かく、それでいてどこか切ない余韻を残す——。
(この曲……)
蘭雪は、ふと気づく。
それは、かつて皇帝が幼き頃に母から聞かされたという子守唄の旋律だった。
(沈貴人……よく調べたわね)
皇后は、かつてその曲を皇帝のために幾度も奏でたことがあると聞く。
つまり——この曲を選んだのは、沈貴人が皇后の心に訴えかけるため。
単なる美しい音楽ではなく、皇后の記憶に刻まれた曲を奏でることで、心に届くように仕向けたのだ。
会場が静まり返る中、沈貴人の演奏は続く。
葉貴妃が、冷ややかな視線を送っている。
しかし——。
皇后は、その音にじっと耳を傾けていた。
沈貴人の奏でる旋律は、皇后の心に届いている——。
最後の音が静かに消えた。
沈黙。
誰もが、次の瞬間を待ち構えていた。
そして——。
皇后が、ゆっくりと口を開いた。
「……よい曲でした」
沈貴人が、深く頭を下げる。
皇后の目が、じっと彼女を見つめていた。
「沈貴人、そなたは何ゆえこの曲を選んだのです?」
沈貴人は、そっと顔を上げた。
「この曲は、陛下が幼き頃に好まれていたと聞きました。皇后様が、幾度もお弾きになられたと……」
皇后の瞳が、わずかに揺れる。
沈貴人は続けた。
「この曲には、母が子を想う深い情が込められております。私は……その心を伝えたくて、選ばせていただきました」
静寂。
その中で、皇后は沈貴人をじっと見つめ——。
「……そうですか」
微かに、微笑んだ。
「沈貴人、その心がけ、悪くはありませんね」
沈貴人が、安堵の色を滲ませる。
そして、皇后は——
「後ほど、私の元へ参りなさい」
その言葉が告げられた瞬間。
沈貴人は、静かに深く礼をした。
蘭雪は、その様子を見つめながら、密かに拳を握った。
(沈貴人の目的は果たされた……)
しかし——。
そのやりとりを、葉貴妃が静かに見つめていた。
彼女の唇が、ゆっくりと笑みを形作る。
その目には——何かを企むような、冷ややかな光が宿っていた。




