第二十三節 揺れる後宮
第二十三節 揺れる後宮
翌朝、蘭雪が目を覚ましたころには、すでに侍女たちが朝の支度を整えていた。
静かに湯を注がれた洗面鉢に手を浸しながら、昨夜の出来事を思い返す。
(沈貴人は……無事に戻れたかしら)
魏尚との一件は、一見すると何事もなく収まったように見える。
しかし、後宮において「何も起こらなかった」ことほど、危険なものはない。
侍女が香り高い茶を注ぐと、蘭雪はゆっくりと口をつけた。
そのとき——。
「蘭雪様、外に使いの者が」
「使い?」
蘭雪は眉をひそめる。
「どこの方?」
「……沈貴人様のお部屋の侍女でございます」
沈貴人——。
蘭雪はわずかに目を伏せ、茶碗を置く。
「通して」
ほどなくして、小柄な侍女が部屋へ入ってきた。
「失礼いたします……蘭雪様」
侍女は不安そうにしていたが、すぐに言葉を続けた。
「沈貴人様が、お呼びです」
蘭雪は静かに頷いた。
「分かりました」
(沈貴人……どんな決断を下したの?)
蘭雪は深く息をつき、そっと立ち上がった——。
***
沈貴人の部屋は、以前とは少し雰囲気が変わっていた。
どこか緊張感がある。
沈貴人は几帳面に整えられた机の前に座り、蘭雪を見つめていた。
「よく来てくれたわ、蘭雪」
「何か……ございましたか?」
沈貴人は一瞬迷うように指を組んだ後、ゆっくりと口を開いた。
「私、決めたの」
蘭雪はじっと彼女の言葉を待つ。
「もう、怯えてばかりの私ではいられない……私なりに動いてみようと思うの」
「……」
「これまで、ただ日々をやり過ごすことしか考えていなかった。でも、それでは何も変わらないと気づいたの」
沈貴人の瞳には、昨夜にはなかった覚悟の色が宿っている。
「それで……どう動かれるおつもりですか?」
蘭雪が静かに問うと、沈貴人はそっと紙片を差し出した。
そこには、端正な筆跡で書かれた言葉——。
『皇后様に拝謁を願う』
蘭雪は目を見開いた。
「……皇后様に?」
沈貴人はしっかりと頷いた。
「今のままでは、私はただの駒。でも、皇后様にお仕えできるなら……」
「私は、もっと強くなれると思うの」
蘭雪は沈黙した。
(これは、賭けね……)
皇后の側に仕えるということは、同時に権力闘争の最前線に立つということ。
しかし、沈貴人はそれを理解した上で、選んだのだろう。
蘭雪はそっと微笑んだ。
「……ならば、私もお力添えいたします」
「蘭雪……!」
「ご覚悟を。後宮で動くということは、すなわち——」
「もう、後戻りはできないということですから」
沈貴人は少し緊張したように息を呑んだが、やがてしっかりと頷いた。
(この決断が、後宮の流れを変えるかもしれない)
蘭雪は沈貴人の手を取り、そっと握った——。
沈貴人の決意を受け、蘭雪は静かに思案した。
(皇后様に拝謁を願うということは、単なる一妃の申し出では済まされない)
皇后の側に近づくことは、すなわち後宮の権力争いに身を投じるということ。
その意図を見抜かれれば、皇后はどう判断するか——。
蘭雪は一つ息をつき、沈貴人を見つめた。
「拝謁を願うと仰いましたが、どうやってその機会を得るおつもりですか?」
沈貴人は少し戸惑ったように視線を落としたが、すぐに口を開いた。
「……それは、私も考えている最中なの」
「皇后様に直接お目通りを願うには、正式な手続きを踏むのが筋ですが——」
「それでは時間がかかるでしょうね」
蘭雪の言葉に、沈貴人は小さく頷いた。
「それに、皇后様が本当に会ってくださるかどうかも……」
沈貴人の不安はもっともだ。
皇后のもとには、日々多くの妃嬪たちが拝謁を求めている。
その中で、沈貴人が特別扱いされる理由はない。
しかし——。
(ならば、特別扱いされる理由を作るしかないわね)
蘭雪は慎重に言葉を選びながら口を開いた。
「……一つ、方法があります」
沈貴人が驚いたように顔を上げる。
「本当?」
「ええ。確実ではありませんが……御花宴の席を利用するのです」
「御花宴……?」
沈貴人が小さく復唱する。
蘭雪は静かに説明を続けた。
「数日後、皇后様主催の御花宴が開かれます。そこには後宮の妃嬪方が揃いますが、皇后様と直接言葉を交わせる機会もあるでしょう」
「確かに……」
沈貴人の目に希望の光が宿る。
しかし、蘭雪は慎重に釘を刺した。
「ただし、皇后様に印象を残すには、ただ拝謁を願うだけでは不十分です」
「……どういうこと?」
「何かしらの才を示さなければなりません」
「才……」
沈貴人は少し考え込む。
後宮では、詩文・書・舞・楽・針仕事など、才芸を示す場がある。
その中で、皇后の目に留まるもの——。
沈貴人は静かに顔を上げた。
「……私は、琴を嗜んでおります」
蘭雪は微かに微笑んだ。
「ならば、それをお使いになればいいでしょう」
沈貴人は決意の表情を浮かべる。
「分かったわ。私、御花宴で皇后様の前で琴を弾く」
「ええ。それが叶えば、きっと皇后様もあなたに注目なさるはず」
沈貴人は大きく頷いた。
(御花宴……それは、単なる宴ではない)
そこには、妃嬪たちの微妙な駆け引きが渦巻いている。
蘭雪は静かに息をつき、目を閉じた。
(皇后様に拝謁するための第一歩……この宴を、うまく利用しなければ)




