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 第十九節 盃の中の真実

琥珀色の酒が、ゆらりと波打つ。


蘭雪は盃を持ち上げ、口元へと運んだ。


——しかし、その瞬間。


「待ちなさい!」


沈貴人が、鋭い声を上げた。


宴の空気が、ぴんと張り詰める。


妃嬪たちは驚き、葉貴妃も一瞬、扇を動かす手を止めた。


沈貴人はゆっくりと立ち上がると、蘭雪の手から盃を取り上げた。


「この酒は、私がいただきますわ」


(沈貴人様……!)


蘭雪は息をのむ。


沈貴人の表情は穏やかだが、その瞳には確かな意志が宿っていた。


葉貴妃は、微笑を崩さない。


「まあ……忠義深い侍女ですこと。でも、それほどまでに飲みたがるのなら、沈貴人が召し上がるのもよろしいのでは?」


沈貴人は盃をゆっくりと傾ける——。


——その瞬間。


「……おや?」


宦官の魏尚が、静かに前へ進み出た。


「どうかしましたか?」


葉貴妃が穏やかに問いかけると、魏尚は恭しく礼をし、淡々と言った。


「この酒……何やら妙な香りがいたしますな」


一同が息をのむ。


魏尚は盃を手に取り、軽く揺らした。


「少し調べさせていただいても、よろしいでしょうか?」


(……魏尚が動いた?)


蘭雪は内心驚きながらも、慎重にその様子を見守った。


葉貴妃は一瞬だけ沈黙したが、すぐに微笑を浮かべる。


「魏尚。あなたは、まるでこの酒に何かあると言いたげですわね?」


魏尚は穏やかに笑ったまま、盃の香りをかぐ。


「私はただ、慎重を期したいだけでございます」


葉貴妃は扇を軽く振り、侍女に命じた。


「では、他の酒を用意なさい」


(……やはり、この酒には何かあった)


蘭雪は静かに息をつく。


魏尚の介入により、沈貴人は毒を口にすることなく済んだ。


しかし——葉貴妃が、何事もなかったかのように再び微笑む姿に、蘭雪は危機感を覚えた。


(葉貴妃は、これで引き下がる方ではない……)


宴はまだ続いている。


この場をどう切り抜けるか——。


蘭雪は、新たな策を練り始めた。



沈貴人の盃が下げられ、代わりに新たな酒が侍女によって注がれた。


魏尚の介入により、一度は未遂に終わった葉貴妃の企み——しかし、これで終わるとは思えない。


蘭雪は葉貴妃の様子を窺った。


「さあ、改めて——沈貴人、どうぞお召し上がりください」


葉貴妃は微笑みながら言った。


沈貴人はゆっくりと盃を持ち上げる。


その手は、わずかに震えていた。


(……やはり、警戒なさっている)


葉貴妃の視線が、沈貴人の指先の震えを見逃すはずがない。


扇の影から、彼女の目が冷ややかに細められた。


「どうなさいました?」


沈貴人は微かに唇を噛んだ。


「いえ……少し、先ほどのことで驚いてしまいました」


葉貴妃は笑う。


「驚くことなど、何もありませんわ。宴の席で疑念を抱くことなど、むしろ礼を欠く行為」


言葉の端に、鋭い棘が潜んでいる。


沈貴人の表情が硬くなるのを見て、蘭雪はすっと前に進み出た。


「葉貴妃様、おっしゃる通りでございます。しかし——」


蘭雪は、盃を手に取ると、さらりと言った。


「この盃を沈貴人様が召し上がる前に、もしも僭越でなければ——私めが毒見をいたしましょうか?」


「……!」


場の空気が凍りついた。


葉貴妃の微笑が、わずかに崩れる。


「まあ……毒見? あなたは、私の用意した酒を疑うと?」


蘭雪は静かに首を振った。


「いえ。ただ、沈貴人様のご体調を案じてのこと。大切なお方ですから」


——葉貴妃の瞳が、ふと冷たく光った。


「ふふ……。では、飲んでごらんなさい」


蘭雪は盃を持ち、静かに微笑むと——ゆっくりと口元へ運んだ。


(……この盃は大丈夫なはず)


毒はすでに魏尚の介入で阻止されている。


しかし、それでも葉貴妃の視線は鋭く、沈貴人を試すような色を帯びていた。


——蘭雪は、迷いなく一口、酒を飲んだ。


「……美味しゅうございます」


そう言って、穏やかに微笑む。


沈貴人も、それを見てようやく盃を口にした。


「……これでよろしいですか?」


沈貴人の言葉に、葉貴妃は静かに笑い——そのまま、扇で口元を隠した。


「ええ。お楽しみくださいな」


蘭雪は、ひそかに息をつく。


この一手で、沈貴人への追及は退けた。


しかし——。


(葉貴妃様は、決して諦めてはいない)


宴はまだ続く。


この場を無事に終えるまで、気を抜くことはできなかった——。




宴が終わる頃には、月はすでに天高く昇っていた。


蘭雪は沈貴人の傍を離れ、静かに夜の回廊を歩いていた。


「賢い方ですね」


ふいに、背後から落ち着いた声が響いた。


振り向くと、そこに立っていたのは——宦官長・魏尚。


「あの場をうまく切り抜けました」


魏尚は微笑みながらも、その眼差しには何かを探るような光が宿っている。


蘭雪は表情を崩さず、ゆっくりと頭を下げた。


「過分なお言葉。私は、ただ沈貴人様をお守りしたまでです」


魏尚は扇を軽く動かしながら、月を見上げる。


「……本当に、それだけですか?」


蘭雪は一瞬、言葉に詰まった。


魏尚は知っている——いや、察している。


私が、ただ沈貴人を守るだけでなく、この後宮の暗流に注意を払っていることを。


「あなたは、思慮深く慎重な方だ。だが——それだけでは生き残れない」


魏尚の声は、どこか試すような響きを帯びていた。


「あなたには、才がある。だが、この後宮でそれをどう使うつもりですか?」


蘭雪は静かに息を整えた。


(……どう答えるべきか)


魏尚は決して単なる傍観者ではない。


彼は宦官長として、葉貴妃にも、太后にも通じている存在。


下手な言葉を選べば、私の立場はさらに危うくなる——。


「私の才など、取るに足りないもの」


蘭雪は慎重に言葉を選んだ。


「ですが、沈貴人様に仕える以上、役に立たねばなりません」


魏尚はしばらく蘭雪を見つめ、それから小さく笑った。


「……面白い方ですね」


そして、彼はすっと近づき、低く囁く。


「いずれ、選ばなければなりませんよ。どちらの手を取るのか」


それだけを言い残し、魏尚はゆっくりと回廊の闇へと消えていった。


蘭雪は静かに立ち尽くす。


(……どちらの手を、取るのか)


魏尚は、一体何を見据えているのか。


彼の言葉の真意は、まだ測りかねる。


しかし——確かなことは一つ。


後宮の闇は、まだまだ深い。


そして、私はその渦中にいるのだ。



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