第十七節 柳琴との対峙
柳琴と直接話をするため、蘭雪は薬膳房へ向かうことにした。
後宮の奥深くに位置する薬膳房は、日々の食事の準備だけでなく、妃嬪たちの体調管理を担う重要な場所である。
薬膳に関わる者は、後宮の勢力争いの中で決して無関係ではいられない。
(柳琴……この女が何者なのか、確かめなければ)
蘭雪は慎重に周囲を見回しながら、薬膳房の入口に立った。
中では数名の女官たちが忙しそうに動いている。
その中に、沈貴人の元侍女であり、今は葉貴妃の膳を担当しているという柳琴の姿があった。
柳琴は、二十代半ばの女官で、落ち着いた雰囲気を持つ。
蘭雪はゆっくりと近づき、穏やかな声で話しかけた。
「柳琴、と言いましたね?」
柳琴は手を止め、驚いたように振り返る。
「……翡翠殿の蘭雪様?」
彼女は一瞬、警戒するような表情を見せたが、すぐに落ち着きを取り戻した。
「突然お邪魔して申し訳ありません。少し、お話しできるかしら?」
柳琴は周囲を気にしながらも、静かに頷いた。
「こちらへどうぞ」
彼女は蘭雪を薬膳房の奥へと案内した。
そこは、薬材や香辛料の匂いが混ざり合う、ひっそりとした空間だった。
柳琴は扉を閉めると、蘭雪をじっと見つめた。
「……私に何か御用でしょうか?」
蘭雪は微笑みながら、核心に触れる言葉を口にした。
「あなたは、以前沈貴人様のお膳を担当していたそうですね」
柳琴の瞳が一瞬だけ揺れた。
「……ええ、そうです。でも、それが何か?」
「どうして今は、葉貴妃様の膳を担当しているの?」
柳琴は少しだけ視線を逸らし、慎重に言葉を選ぶように答えた。
「それは……ただの人事異動です」
「本当に?」
蘭雪は優しく微笑んだまま、柳琴の目を真っ直ぐに見つめた。
「沈貴人様は、あなたのことを気にかけていらしたわ。あなたが突然、葉貴妃様の側に移ったことを、不思議に思っているの」
柳琴の指先が僅かに震えた。
「……私には、どうすることもできませんでした」
「どういうこと?」
柳琴は、小さく息を吐き出した。
「私は……沈貴人様の侍女として仕えていました。でも、葉貴妃様が『自分の膳を担当する者を増やす』と仰り、私を指名されたのです」
「断ることはできなかった?」
柳琴は、苦笑を浮かべた。
「断れば……沈貴人様に累が及ぶかもしれませんでした。だから……従うしかなかったのです」
蘭雪は静かに柳琴の言葉を噛み締めた。
(つまり……柳琴は、葉貴妃様の命令で沈貴人様から引き離された。でも、それだけではないはず)
蘭雪はさらに一歩踏み込んだ。
「柳琴……あなたは今でも、沈貴人様に忠誠を誓っている?」
柳琴は、一瞬だけ目を見開いた。
その表情は、否定しきれないものであった。
「……私は、ただ命じられた通りに動いているだけです」
(今の言葉、否定ではなかった)
蘭雪は、確信した。
柳琴はまだ沈貴人への忠誠を捨てていない。
ならば——。
「あなたが沈貴人様のためにできることがあるとしたら?」
柳琴は息を呑んだ。
「それは……?」
「葉貴妃様の元で得た情報を、沈貴人様に伝えること」
柳琴は、僅かに迷うような表情を浮かべたが、やがて小さく頷いた。
「……私にできることなら」
蘭雪は微笑んだ。
「ありがとう、柳琴。あなたの忠義は、必ず沈貴人様のお力になるわ」
柳琴は、静かに目を伏せた。
こうして、蘭雪は葉貴妃の膳を担当する柳琴を、沈貴人のための密偵として引き込むことに成功した。
後宮の戦いは、少しずつ形を変えながら進んでいく。
蘭雪は柳琴との密談を終え、慎重に薬膳房を後にした。
夜の帳が下りた後宮は、昼間とは異なる静寂に包まれ、どこか息が詰まるような緊張感が漂っている。
(柳琴を引き込むことに成功した……これで、葉貴妃の動向を掴む手がかりが得られるはず)
蘭雪は歩きながら、今後の動きを考えた。
柳琴がすぐに情報を持ってくるとは限らない。
焦らず、確実に動くことが重要だ。
——だが、その前に、伝えなければならないことがある。
蘭雪は翡翠殿に戻ると、侍女たちに「しばらく部屋には誰も入れないように」と伝え、自室へ向かった。
沈貴人への報告——それが、次の課題だった。
蘭雪は机の上に筆と紙を広げ、慎重に筆を走らせた。
「沈貴人様——柳琴は依然として、あなたへの忠誠を捨てておりません」
「彼女は現在、葉貴妃様の膳を担当しておりますが、その立場を利用し、貴人様へ有益な情報をもたらすことができるでしょう」
「しかし、彼女が不審に思われぬよう、慎重に動く必要があります」
「近く、彼女から最初の報告が届くはず——その時、改めてお知らせいたします」
蘭雪は筆を置き、書状を折り畳んだ。
これを直接沈貴人へ届けるわけにはいかない。
信頼できる者を通じて、密かに渡す必要があった。
(……沈貴人様の侍女の中に、確実に信用できる者はいるはず)
蘭雪は慎重に選び、宦官を通じて書状を届ける手はずを整えた。
翌日——。
朝の支度を終えた蘭雪のもとに、侍女の白蘭が静かに近づいた。
「蘭雪様、沈貴人様よりお返事が届いております」
蘭雪は表情を変えずに受け取り、部屋へ戻ると、すぐに封を開いた。
中には、沈貴人の繊細な筆跡で書かれた短い文があった。
「蘭雪様——ご配慮に感謝いたします。柳琴の件、承知いたしました」
「ただ、しばらくは慎重に事を進めたほうがよろしいかと存じます」
「私もまた、動きを見極めつつ、次の策を練ることといたします」
「——沈」
沈貴人の書状は、感謝の意と同時に、今はまだ軽率な動きを避けるべきだという警告を含んでいた。
(……やはり、沈貴人様も警戒されている)
蘭雪はゆっくりと書状を折り畳み、慎重に隠した。
柳琴の情報が届くまで、焦らずに動くこと。
——それが、今の後宮で生き延びるための最善の策だった。




