第十六節 沈貴人の策
第十六節 沈貴人の策
沈貴人の宮を後にした蘭雪は、廊下を歩きながら考えを巡らせていた。
(高貴妃様が沈貴人様を狙っているのは、確実。でも……ただ妨害するだけでは足りない)
こちらも動かなくては、いずれ押し潰されるだけ。
蘭雪が翡翠殿へ戻ると、すぐに沈貴人からの文が届いた。
内容は簡潔だった。
「今夜、翠微殿にて待つ」
翠微殿は、沈貴人が時折訪れる静かな場所。
侍女たちの目が届かぬため、密談には最適だった。
(沈貴人様も、何か策をお考えのようね)
蘭雪は文を懐にしまい、決意を固めた。
――夜。
蘭雪が翠微殿に足を踏み入れると、灯りの下に沈貴人の姿があった。
机の上には、茶器とともに数枚の書簡が置かれている。
「……お待たせしました」
蘭雪が静かに言うと、沈貴人は微笑んだ。
「いいえ、あなたが来ることは分かっていたわ」
「さあ、座って」
蘭雪が席につくと、沈貴人は手元の書簡を一枚差し出した。
「これを見て」
蘭雪は受け取り、目を通す。
そこには、整った筆致でこう記されていた。
「薬膳女官の出身を調べよ」
「これは……?」
「後宮で薬を扱う者は、必ず誰かの影響を受けているわ。彼女が本当に葉貴妃の手の者なのか、それとも別の思惑があるのか……それを知ることが重要よ」
蘭雪は、その意図をすぐに理解した。
(つまり……敵の駒を、こちらの駒に変える可能性を探るということ)
沈貴人は、茶碗を手に取りながら静かに言った。
「蘭雪、あなたに調べてほしいの」
「私が?」
「ええ。あなたの機転なら、きっと彼女の真意を引き出せる」
蘭雪は、少し考えた後、静かに頷いた。
「分かりました」
敵をただ排除するだけでは、後宮では生き残れない。
敵を利用し、こちらの手駒に変えることができれば、それこそ勝機となる。
沈貴人は微笑みながら、静かに言った。
「この戦は、もう始まっているのよ」
沈貴人からの指示を受けた蘭雪は、すぐに動き出した。
(薬膳女官……まずは、彼女の素性を探ることが先決ね)
後宮の女官たちは、表向きは皆「宮仕えの者」という立場だが、実際はそれぞれ異なる出自を持つ。
中には、貴人たちの密偵や、外廷の権力者の手先が紛れ込んでいることもある。
蘭雪は翡翠殿へ戻ると、女官の一人を呼び寄せた。
「白蘭、少しお願いがあるの」
白蘭は蘭雪の侍女の一人で、口が堅く、聡明な女性だ。
「はい、蘭雪様。何なりと」
蘭雪は声を潜めて言った。
「後宮の薬膳房で働く女官の中に、『柳琴』という者がいるはず。彼女の素性を調べてほしいの」
白蘭は一瞬考え込んだ後、頷いた。
「分かりました。慎重に調べます」
「お願いね。できるだけ目立たぬように」
白蘭は静かに去っていった。
蘭雪は、しばらくの間、考えを巡らせながら待つことにした。
(柳琴……なぜ沈貴人様は、彼女に注目されたのかしら?)
それを知るためにも、まずは情報が必要だった。
——翌日。
白蘭が戻り、小声で報告した。
「柳琴は、もともと宦官の推薦で薬膳房に入りました。ですが、その宦官はすでに後宮を去っています」
「……宦官が?」
「はい。さらに、彼女は薬膳の知識に優れており、最近では葉貴妃様の膳も担当しているとか」
蘭雪は目を細めた。
(つまり、柳琴は葉貴妃様に近づくことができる立場……)
白蘭はさらに続けた。
「しかし、奇妙なことがありました」
「何かしら?」
「彼女は、葉貴妃様に仕える前に沈貴人様の膳も担当していたのです」
「……!」
蘭雪は驚きを隠せなかった。
(つまり……柳琴は、かつて沈貴人様の側にいた女官。でも今は、葉貴妃様の元に……?)
蘭雪は考えた。
(彼女は、葉貴妃様の手の者なのか。それとも、沈貴人様に利用されていたのか……?)
柳琴に会って、直接確かめる必要がある。
蘭雪は、静かに決意を固めた。




