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 第十五節 沈貴人の危機

 第十五節 沈貴人の危機


 宴の余韻が消えぬまま、夜の帳が後宮を静かに包み込んでいた。


 蘭雪は翡翠殿へ戻る途中、心に小さな棘が刺さったような違和感を覚えていた。


(……葉貴妃様が、沈貴人様に対して興味を持った)


 それが単なる好奇心ならば問題はない。


 しかし、後宮において目をつけられるということは、すなわち波乱の幕開けを意味する。


(このまま、何事もなく済むはずがないわ)


 沈貴人の振る舞いは確かに見事だった。


 だが、それが彼女にとって吉と出るか凶と出るかは、まだ分からない。


 蘭雪が思案しながら歩いていると、ふいに誰かの視線を感じた。


(……誰?)


 足を止め、背後を振り向く。


 しかし、そこには誰もいなかった。


 それでも、冷たい夜気の中に何か得体の知れない気配が漂っている。


(……気のせい?)


 そんなはずはない。


 蘭雪は、ゆっくりと歩き出しながら、さりげなく周囲を探った。


 すると——


 回廊の柱の影に、一瞬だけ人影が揺れた。


(やはり……)


 蘭雪は悟る。


 誰かが、自分を監視しているのだ。


(私に? それとも……沈貴人様の動きを探っている?)


 もし後者なら、葉貴妃が早速沈貴人を警戒し、探りを入れている可能性が高い。


(このまま帰れば、私の動きまで読まれる……)


 蘭雪は考え、あえて回廊を迂回することにした。


 翡翠殿へは戻らず、一旦別の道を通ることで誰が自分を追っているのかを確かめる。


 そして——


 回廊の奥、暗がりに身を潜めた蘭雪は、影の主が密かに動く様子を捉えた。


(やはり……)


 それは、葉貴妃に仕える宦官の一人だった。


(葉貴妃様は、もう動いている……)


 沈貴人に対する策が、すでに水面下で進んでいることを悟る。


 このままでは——


(沈貴人様が狙われる)


 蘭雪は、そっと息を吐いた。


(何とかしなければ……)


 沈貴人が目をつけられた今、彼女が無事でいられる保証はない。


 何も知らずに朝を迎えれば、思わぬ罠に陥ることもあり得る。


(私が、動くしかないわね)


 蘭雪は、静かに身を翻し、暗闇の中へと消えていった——。



 翌朝、蘭雪は沈貴人の宮へ向かった。


 翡翠殿を出ると、冷たい朝の空気が肌を刺すようだった。


(この寒さが、ただの天候によるものならいいけれど……)


 蘭雪の胸中には、昨夜の宦官の影が未だに残っていた。


 葉貴妃の動きは、確実に沈貴人を狙っている。


 何も知らずにいれば、沈貴人はただの駒として潰されるだけだ。


(でも、沈貴人様は……決してただの駒ではない)


 蘭雪は拳を軽く握りしめた。


 沈貴人は聡明な人。だが、後宮で生き残るには、それだけでは足りない。


 たどり着いた沈貴人の宮は、静かに朝を迎えていた。


 門の前にいた侍女が蘭雪を認め、すぐに中へ通してくれる。


 蘭雪が案内されたのは、小さな庭のある書室だった。


 そこに沈貴人の姿はなく——侍女たちの顔には、どこか緊張の色が浮かんでいた。


「沈貴人様は?」


 蘭雪が尋ねると、侍女がためらいがちに答える。


「……お庭で、お薬を……」


(薬?)


 蘭雪は即座に異変を察した。


 ——薬。


 この後宮で、それが何を意味するのかを考えずとも分かる。


 蘭雪は侍女の制止も聞かず、書室を飛び出した。


 沈貴人の姿を探し、庭へと向かう。


 そして——


 沈貴人は、小さな卓の前に座り、湯気の立つ茶碗を前に佇んでいた。


 その横には、薬膳を扱う女官が一人。


「……沈貴人様?」


 蘭雪が呼びかけると、沈貴人はゆっくりと顔を上げ、微笑んだ。


「おはよう、蘭雪」


「そのお薬……」


 蘭雪は、目の前の茶碗を見た。


(これは……)


 透き通った琥珀色の液体——それは、ただの薬ではない。


「女官様、この薬の材料を教えていただけますか?」


 蘭雪は冷静に問いかけた。


 しかし、薬膳女官は微かに目を伏せ、口をつぐんだ。


(……やはり)


「沈貴人様、その薬をお飲みになってはいけません」


 蘭雪は、静かに言った。


 沈貴人の指が、ぴくりと動く。


 そして——


「……理由は?」


「その薬、陳皮と紅花が使われているでしょう?」


 沈貴人の表情が変わる。


 薬膳に詳しい沈貴人なら、この組み合わせの意味を知らないはずがない。


 ——それは、子を宿しにくくする作用を持つ。


(葉貴妃様……早速、動いたのね)


「……その通りね」


 沈貴人は、小さく息を吐いた。


「蘭雪、あなたも気づいていたのね」


 蘭雪は、沈貴人の目を見つめ、静かに頷いた。


「飲むつもり、でしたか?」


 沈貴人は微かに笑う。


「……どうかしら?」


 彼女は、そっと茶碗に手を伸ばし——


 それを、静かに卓に戻した。


「でも……そうね」


「私に、あなたのような侍女がいるのなら……」


「安易に罠にかかるのは、少し惜しいわ」


 蘭雪は、沈貴人の言葉を聞き、そっと微笑んだ。


 沈貴人は、決してただの寵妃ではない。


 後宮で生き残るための賢さを持つ者。


(ならば、私がすべきことは……)


「沈貴人様、このままでは済みません」


「葉貴妃様は、まだ試しただけです。次はもっと直接的な手を打つでしょう」


 沈貴人は、ゆっくりと微笑んだ。


「ええ……それも分かっているわ」


「だからこそ、私たちは……一手先を読む必要があるのよね?」


 蘭雪は、その言葉に深く頷いた。


(次に動くのは、私たち)


 葉貴妃に先手を取られる前に——沈貴人の立場を盤石なものにしなくてはならない。


 後宮の戦は、すでに始まっている。


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