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 第十四節 葉貴妃の次なる一手

 第十四節 葉貴妃の次なる一手


 沈貴人の詩により、広間の空気は一変していた。


 それまで沈貴人を軽んじていた者たちも、その才気に気づき始めたのだろう。


 しかし——


(このまま終わるはずがない)


 蘭雪は、葉貴妃の表情を観察していた。


 微笑を湛えたままのその顔は、表面上は穏やかに見えるが、内心では何かを考えているはず。


「素晴らしい詩でしたわ、沈貴人」


 葉貴妃はゆっくりと杯を置き、沈貴人を見つめる。


「ですが……詩を詠むだけでは、後宮では生き抜けませんわよ?」


 その言葉に、広間の空気が再び張り詰める。


 沈貴人は、変わらぬ微笑を浮かべたまま静かに応じた。


「もちろん、承知しております」


「では——次は、貴女の心を試させていただきますわ」


 葉貴妃が、そっと手を叩く。


 すると、側近の宦官がすぐに動き、広間の中央に一人の女官を引き出した。


(……あれは?)


 蘭雪は、女官の姿を見て眉をひそめた。


 衣は簡素で、年若い。おそらく雑用を任される下級の女官だろう。


 怯えたようにうつむき、肩を震わせている。


「この者——今朝、沈貴人の侍女にぶつかり、衣を汚したそうですわ」


 葉貴妃は、ゆっくりと続ける。


「貴女の侍女が訴え出てきましたの。どういたしましょう?」


 広間に、微かなどよめきが広がる。


(これは……試されている)


 蘭雪は、すぐに状況を理解した。


 ——沈貴人が、どのような「裁き」を下すのか。


 葉貴妃は、それを見極めようとしているのだ。


 寛容を示せば「甘い」と見なされ、後宮で侮られる。


 厳しく処せば「冷酷」と取られ、敵を増やす。


 この場における正解は——限りなく少ない。


 沈貴人は、しばし沈黙したまま、女官を見つめた。


 その静かな視線に、女官はますます震え上がる。


(沈貴人様……どうなさるの?)


 蘭雪は、息を詰めて見守る。


 やがて、沈貴人は口を開いた。


「確かに、私の侍女は衣を汚されたと申しておりました」


「ですが——それは、故意ではないのでしょう?」


 女官は驚いたように顔を上げる。


 沈貴人の声は、穏やかだった。


「故意でない過ちを責めるのは、度量の狭いこと」


「しかし、同じ過ちを繰り返さぬよう、学ぶこともまた大切です」


 沈貴人は、ゆっくりと続ける。


「この女官には、これから書の練習を課しましょう」


「筆を執ることで、心を落ち着け、慎重さを養うことができます」


 広間に、驚きの声が漏れる。


 それは——罰ではなく、学びの機会を与えるという裁定。


 まるで、皇帝が臣下に示すような寛大さだった。


 葉貴妃は、沈貴人をじっと見つめていた。


「……なるほど。貴女の器量、確かに見せていただきましたわ」


 彼女はゆっくりと微笑み、杯を手に取る。


「沈貴人、これからが楽しみですわね」


 沈貴人は、静かに一礼した。


(……見事な采配)


 蘭雪は、内心で感嘆していた。


 強さを見せつけることなく、品格と知恵を示す——


 これ以上ない、最上の答えだった。


 だが、それは同時に——


(……葉貴妃は、沈貴人を危険視するようになる)


 沈貴人が、後宮で無視できない存在になったことを意味していた。




 沈貴人の裁定が下された後、広間の空気は微妙に変化していた。


 女官に罰を与えることなく、学びの機会を与える——その手法は、葉貴妃を含めた周囲の者たちに意外な印象を残したようだった。


 葉貴妃は微笑を浮かべたまま杯を口に運び、何事もなかったかのように宴を続けるよう促したが、その目には沈貴人に対する新たな警戒心が滲んでいた。


(……沈貴人様、やはり只者ではない)


 蘭雪は、静かに杯を手に取りながら、周囲の反応を観察していた。


 沈貴人がこれまで静かに目立たぬよう振る舞っていたのは、後宮の波風を避けるためだったのかもしれない。


 だが、一度その才を示せば、もはや誰も彼女を侮れない。


(しかし、それは同時に……)


 沈貴人に対する新たな敵意を生むことにもなる。


 葉貴妃の取り巻きである妃嬪たちは、沈貴人を新たな脅威と見なしたのか、互いに視線を交わしていた。


 宴が続く中、蘭雪の隣に座る麗容れいようが、小さく息を吐いた。


「……沈貴人様、よくやりましたわね」


「ええ」


 蘭雪も同意する。


「ですが、あのやり方ではますます敵を増やすことになります」


「……そうですわね」


 麗容も頷き、さりげなく視線を巡らせる。


 沈貴人に対する視線は、既に変わり始めていた。


 彼女の采配を称賛する者、警戒する者、そして嫉妬する者——


 その全てが、静かなる波紋となって後宮に広がっていく。


 その時——


「沈貴人、貴女はどこで詩を学ばれたの?」


 唐突に、向かいに座っていた華美人が声をかけた。


 華美人は葉貴妃派の一人。


 明るい笑顔の裏に探りを入れる意図があることは明らかだった。


 沈貴人は微笑を崩さずに答える。


「幼い頃より、父から学んでおりました」


「まあ、素晴らしいですわね。……それほどの才がありながら、なぜもっと早く才を示されなかったのかしら?」


 華美人の言葉に、周囲が再び注目する。


(……やはり、試すつもりね)


 蘭雪は密かに身構えた。


 沈貴人は、ゆっくりと杯を置いた。


「後宮においては、時に目立たぬこともまた才の一つ。……違いますか?」


 広間に、一瞬の静寂が落ちる。


 華美人は、沈貴人の答えに驚いたように瞬きをした。


 葉貴妃は、沈貴人を見つめながら興味深そうに微笑む。


「……貴女の言う通りですわね」


「沈貴人、貴女がこれからどう立ち回るのか……私、とても楽しみですわ」


 葉貴妃はそう言い、杯を掲げた。


 沈貴人は、それに静かに応じる。


 その場では、それ以上の追及はなかったが——


(……このままでは済まない)


 蘭雪は、確信していた。


 葉貴妃は、沈貴人に目をつけた。


 これが、ただの警戒で済むのか。


 それとも、次なる策謀へと繋がるのか——


 それを知るのは、もう少し先のことだった。


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