第十三節 葉貴妃の試し
第十三節 葉貴妃の試し
葉貴妃の住まう華陽殿は、贅を尽くした装飾と豪奢な調度品に囲まれた、まさに権勢を誇る妃の宮だった。
沈貴人と蘭雪が案内された広間には、すでに数名の妃嬪たちが控えていた。
その中央、葉貴妃・葉容華が、ゆったりとした姿勢で座している。
——美しく、冷徹な瞳を持つ後宮の女帝。
「沈貴人、お待ちしておりましたわ」
葉貴妃は穏やかな微笑みを浮かべながら、沈貴人に視線を向けた。
沈貴人は静かに一礼する。
「葉貴妃様、お呼びいただき光栄に存じます」
「ふふ……あなた、最近皇后様とお話する機会が増えたそうね」
沈貴人は微かに目を伏せ、慎重に言葉を選んだ。
「皇后様はお優しい方で、たまたま幾度かお声をかけてくださっただけにございます」
葉貴妃は、杯を手に取りながら、静かに沈貴人を観察している。
(……探られているわね)
蘭雪は沈貴人の背後に控えながら、わずかに緊張を強めた。
沈貴人が皇后に近づくことを、葉貴妃が快く思うはずがない。
だが、ここで下手なことを言えば、葉貴妃の標的となるのは避けられない。
「それにしても——」
葉貴妃は杯を置き、ゆっくりと立ち上がる。
「貴女は、芸事には長けているのかしら?」
沈貴人は、その言葉の意図をすぐに察した。
(……試すつもりね)
妃嬪たちの間で、芸事の披露は時に屈辱となり得る。
自らの失敗が、そのまま権力の失墜に繋がることもあるのだ。
「さあ、どうかしら?」
葉貴妃の言葉に、沈貴人は微笑んだ。
「葉貴妃様の御前で何か披露できる機会をいただけるとは、光栄です」
そして、静かに続けた。
「私が少しだけ心得ているのは——琴でございます」
その瞬間、広間がざわめいた。
琴の演奏は、妃嬪のたしなみとして最も格式の高いものの一つ。
(……沈貴人様)
蘭雪は、沈貴人の選択に驚きを隠せなかった。
——この場で琴を弾くということは、完璧な演奏を求められるということ。
少しでも乱れれば、それは恥となる。
葉貴妃は、わずかに目を細めた。
「琴とは、また雅なものを選んだのね」
「身に余るほど拙いものですが……」
「よろしいわ」
葉貴妃は侍女に命じ、琴を運ばせた。
沈貴人はゆっくりと腰を下ろし、琴の前に指を添える。
(……大丈夫、沈貴人様なら)
蘭雪は、沈貴人を信じた。
沈貴人は目を閉じ、一息つくと——
静かに、指を動かし始めた。
沈貴人の指が静かに琴の弦を撫でた。
——ポロン……
透き通るような音が広間に響き渡る。
その瞬間、それまでざわめいていた妃嬪たちの口が、ぴたりと閉じられた。
(この音……)
蘭雪は、琴の旋律に耳を傾けながら、心を奪われるのを感じていた。
沈貴人が選んだのは、「幽蘭の調」——宮廷の宴などでは滅多に奏でられない、雅で静謐な曲。
その名の通り、深山にひっそりと咲く蘭の花のように、控えめでありながらも気品を湛えた旋律だった。
(見事な選曲ね……)
蘭雪は、沈貴人の意図をすぐに察した。
葉貴妃に対して決して敵対の意を示さず、慎ましく、そして優雅に——その立ち位置を示すための曲。
沈貴人の指先は、流れるように弦を撫で続ける。
音色は澄んでおり、まるで静かな水面に広がる波紋のよう。
やがて曲が終わると、広間には深い沈黙が訪れた。
(……息を呑んでいる?)
蘭雪は、妃嬪たちの反応を観察した。
誰もが、沈貴人の演奏に魅了されていたのがわかる。
——そして、その中心にいる葉貴妃。
彼女は微笑みを浮かべながら、ゆっくりと沈貴人を見つめていた。
「……なかなかの腕前ですわね」
沈貴人は静かに微笑み、一礼する。
「お褒めにあずかり、光栄にございます」
葉貴妃は杯を手に取り、軽く揺らした。
「しかし、妃たるもの、琴の腕前だけでは務まりませんわ」
広間に、再び緊張が走る。
(まだ試すつもり……?)
蘭雪が思案していると、葉貴妃はゆっくりと続けた。
「詩を詠むこともまた、大切な才の一つ。あなた、即興で一首詠めますか?」
沈貴人は、一瞬だけ目を伏せた後、微かに微笑んだ。
「僭越ながら——拙き詩を一つ、詠ませていただきます」
彼女は琴の前から静かに立ち上がり、ゆったりとした所作で袖を整える。
そして、柔らかく口を開いた。
「蘭の花、幽谷に咲きて」
「露に濡れつつ、香を残す」
「誰が知る、月下の影」
「風に乗りて、天に至らん」
——静寂。
それは、沈貴人の詩に対する絶対的な感嘆の証だった。
(……沈貴人様)
蘭雪は、思わず胸を打たれた。
この詩には、明確な意図が込められている。
「幽谷に咲く蘭」——それは沈貴人自身のこと。
「露に濡れながらも香りを残す」——どんな苦境にあっても、気品を失わないという誓い。
そして——
「風に乗りて、天に至らん」
(この後宮で、私はただの飾りでは終わらない)
沈貴人の意思が、詩の中に静かに織り込まれていた。
葉貴妃は、沈貴人を見つめながら、ゆっくりと杯を傾けた。
「……ふふ、詩の才もお持ちとは、素晴らしいことですわね」
葉貴妃の声は柔らかいが、その瞳には、鋭い光が宿っていた。
「貴女のこと——ますます興味が湧きましたわ」
沈貴人は、微笑みを崩さないまま、静かに一礼した。
(……試練は、まだ終わっていない)
蘭雪は、沈貴人の背を見つめながら、次なる波が来るのを感じていた——。




