第十二節 宦官の腹心
第十二節 宦官の腹心
翌日、蘭雪は慎重に機会を窺いながら、宦官・趙祥に接触する準備を整えていた。
魏尚の腹心である趙祥は、宦官の中でも特に冷静沈着な男として知られ、魏尚の命を受けて後宮の動向を探る役割を担っている。
(魏尚の意図を探るには、彼の側近に近づくのが手っ取り早い)
蘭雪は、趙祥が午前中に後宮の倉庫管理をしているという情報を得て、そこへ向かうことにした。
倉庫は後宮の西側にあり、日常の雑務を担う宦官や女官たちが行き交う場所だった。
蘭雪は、あえて目立たぬように地味な衣をまとい、書類を手にして倉庫へ足を踏み入れる。
——そこにいたのは、趙祥だった。
彼は細身の体をやや屈めながら、記録帳に筆を走らせていた。
「趙公公、少しお時間をいただけますか?」
蘭雪が静かに声をかけると、趙祥は一瞬だけ目を上げた。
「……蘭雪姑娘?」
彼は驚く様子もなく、淡々と筆を置いた。
「私に何か御用ですか?」
「ええ、少しお話したいことが」
趙祥は周囲を一瞥し、軽くうなずいた。
「では、こちらへ」
彼は蘭雪を倉庫の奥へと案内した。
そこは使用されていない古い棚が並ぶ一角で、他の者に聞かれる心配はなさそうだった。
「さて、どういったご用件でしょう?」
趙祥の声は抑揚がなく、その表情には何の感情も読み取れない。
蘭雪は慎重に言葉を選びながら、切り出した。
「魏公公が昨日の詩会で沈貴人様に興味を示されたのは、何か理由があるのでしょうか?」
趙祥の目がわずかに細まる。
「……それを知って、どうされるおつもりです?」
「沈貴人様に危険が及ぶのなら、先に手を打ちたいのです」
蘭雪は真っ直ぐに趙祥を見つめた。
趙祥はしばし沈黙した後、小さくため息をついた。
「魏公公は……沈貴人様が後宮の均衡を崩す可能性があると見ておられるのです」
「均衡……?」
「葉貴妃様と皇后様の間で微妙な均衡が保たれています。その中で、沈貴人様が皇后様に近づけば……それは新たな派閥を形成する兆しとなる」
「だから、魏公公は沈貴人様を試したのですね」
趙祥はわずかに口角を上げた。
「蘭雪姑娘……あなたも相当な策士ですね」
「いいえ。ただ、沈貴人様を守りたいだけです」
趙祥は静かに蘭雪を見つめた後、少し考えるように視線を落とした。
やがて、低い声で囁くように言った。
「……一つ、忠告をしましょう」
蘭雪は身を乗り出す。
「魏公公は、まだ沈貴人様を“敵”と見定めたわけではありません。しかし……これからの行動次第では、手を下すことも躊躇わないでしょう」
「……!」
「沈貴人様が目立ちすぎないようにすること……それが、今あなたにできる最善の策です」
趙祥はそう言うと、再び筆を手に取り、静かに仕事に戻った。
蘭雪は趙祥の言葉を反芻しながら、倉庫を後にした。
(沈貴人様を守るためには、慎重に動く必要がある……)
だが、魏尚の関心を完全に逸らすことはできるのか——?
蘭雪は倉庫を後にしながら、趙祥の言葉を何度も反芻していた。
(魏尚はまだ沈貴人様を“敵”と見ているわけではない……けれど、慎重に動かなければならない)
沈貴人が目立ちすぎないように——それはつまり、沈貴人の立場を守るために、策を講じる必要があるということだ。
だが、蘭雪にはもう一つ気がかりなことがあった。
(葉貴妃様……あの方も、沈貴人様の存在を意識し始める頃ではないかしら)
後宮で影響力を持つ二大勢力——皇后派と葉貴妃派。
沈貴人が皇后に近づけば、それは新たな派閥の誕生を意味する。
そうなれば、葉貴妃が沈貴人を放っておくはずがない。
蘭雪は翡翠殿へと戻ると、すぐに沈貴人のもとへ向かった。
部屋に入ると、沈貴人は机に向かいながら、どこか沈んだ表情をしていた。
「沈貴人様……」
蘭雪がそっと声をかけると、沈貴人は顔を上げた。
「蘭雪……待っていたわ。趙祥とは話せた?」
「はい。魏公公はまだ沈貴人様を敵と見てはいません。ただし、これからの行動次第では……」
沈貴人は小さく頷いた。
「つまり、私が皇后様に近づけば、魏尚も敵に回るということね」
「ええ……それに、もう一人、警戒すべきお方がいます」
「……葉貴妃様ね」
沈貴人の瞳が、一瞬だけ険しく光った。
その時——。
「沈貴人様!」
慌ただしい足音と共に、侍女の春桃が駆け込んできた。
「どうしたの?」
沈貴人が静かに尋ねると、春桃は息を整えながら言った。
「先ほど、葉貴妃様の侍女がいらして、『葉貴妃様がお呼びです』と……」
沈貴人と蘭雪は、互いに目を見交わした。
(……来た)
葉貴妃が動き出した——それは、沈貴人にとって試練の始まりを意味していた。
沈貴人は静かに立ち上がり、微笑んだ。
「……わかったわ。すぐに参りましょう」
蘭雪は心の中で素早く思考を巡らせる。
(ここで下手に拒めば、余計に疑われる……けれど、慎重に言葉を選ばなければ)
「私もお供いたします」
沈貴人と蘭雪は、静かに葉貴妃の宮へと向かった。




