第百二十六節 ——皇后、出御
第百二十六節 ——皇后、出御
「皇后様、どうか直接、陛下のもとへ——。」
私がそう申し上げると、皇后は目を細めた。
「……私に、陛下のもとへ出向けと?」
その声には、静かながらも威厳が宿っていた。
沈逸が扇を軽く開く。
「確かに、皇后様が動かれれば、葉貴妃の主張を正面から打ち崩せましょう。しかし、それは同時に後宮の対立を公のものとすることにもなります。」
私は沈逸の言葉に一瞬迷うが、それでも決意を固める。
「葉貴妃は今、この瞬間にも陛下に讒言を吹き込んでいるはずです。もし、皇后様が動かれなければ、真実よりも葉貴妃の言葉が先に陛下の心に刻まれてしまいます。」
「……。」
皇后は沈黙した。
私の言うことの意味を理解しているのだろう。
しかし、それでも決断には慎重であった。
「私が直接、陛下に申し上げるとなれば、葉貴妃だけでなく、周囲の目も変わる。陛下が私を避け続けている以上、私の言葉がどれほど届くかはわからぬぞ。」
確かに、それは一理ある。
だが——。
「今こそ、皇后様が後宮の正統なる主であることを示す好機です。」
私は、まっすぐに皇后を見据えた。
「これまで陛下が皇后様を遠ざけていたのは、葉貴妃が意図的にそう仕向けたからです。 陛下が皇后様のご意見を直接聞く機会を持たなかったからこそ、葉貴妃の言葉に影響されてしまわれたのです。」
沈逸が小さく息をつく。
「確かに、それは一理あります。」
皇后の指が杯の縁をなぞる。
「……お前の言葉には、理があるな。」
静かな声だった。
私は息を呑んで、次の言葉を待つ。
やがて——。
「よかろう。」
皇后はゆっくりと立ち上がった。
「——私が、陛下のもとへ参ろう。」
◇
皇后の行啓は、ただの采女や妃とはまるで違うものだった。
彼女が一歩を踏み出せば、宮中の女官たちが即座に跪き、道を開ける。
「皇后様、ご移動です!」
先導する女官の声が響き渡ると、周囲の宮人たちは一斉にひれ伏した。
後宮の正統なる主が、久しく動かなかったその座から動く。
これは、まさしく後宮の勢力図が揺らぐ瞬間だった。
私と沈逸も、その後を慎重に追う。
——皇帝が、皇后の到来をどう受け止めるのか。
——葉貴妃が、どのように動くのか。
すべては、この先にかかっていた。
◇
やがて、皇后は乾清宮の正門へとたどり着いた。
近くにいた宦官が、驚愕の表情を浮かべる。
「こ、皇后様……! 本日、陛下はお休みになられており——」
「通せ。」
皇后の一言で、宦官は凍りついたように沈黙する。
この後宮において、皇后が皇帝に謁見を求めることを拒める者など、本来はいない。
宦官は慌てて頭を下げた。
「し、しかし……陛下は今、葉貴妃様とお話を……」
「ならば、なおのこと好都合だ。」
皇后は微笑し、一歩、門へと足を進める。
「私の言葉も、一緒に聞いていただこう。」
私の心臓が大きく跳ねる。
(……いよいよ、正面対決か。)
葉貴妃の讒言が、陛下の耳にどこまで届いているのか。
そして——皇后の言葉は、果たしてどこまで通じるのか。
私は、固く拳を握りしめた。
皇后が静かに乾清宮へと足を踏み入れる。
私も沈逸と共にその後に続き、御座所の手前で立ち止まる。
中では、葉貴妃が皇帝の前でしなやかに頭を垂れていた。
「……陛下、どうかご再考くださいませ。」
葉貴妃の声音は柔らかく、まるで春風のようだった。
しかし、その言葉の奥には、皇后を退けようとする鋭い意図が隠されている。
「蘭雪が皇后様を欺き、密かに他の采女たちを味方につけようとしているのです。皇后様が直接気づかれぬよう、巧妙に立ち回っております。私も何度かそれとなく進言いたしましたが、皇后様はあまりにお優しくて……。」
(……なるほど。私を貶めるだけでなく、皇后の判断力も疑わせるつもりか。)
私は冷静に葉貴妃の言葉を分析する。
皇后は、それを黙って聞いていたが——。
「それが真実かどうか、陛下ご自身でお確かめくださいませ。」
落ち着いた声が響いた。
その場の空気が、一瞬で変わる。
皇后の姿を見た葉貴妃の目が、僅かに揺れた。
「……皇后様?」
まるで、予想外の事態に戸惑ったかのような表情。
「私が陛下のもとへ直接参るのは、久方ぶりですね。」
皇后は微笑みながら、ゆったりと進み出る。
「申し訳ございません、陛下。先ほどまで宮中のことを調べておりまして。」
慶成帝は、沈黙したまま皇后を見つめた。
皇后が自ら足を運んでくるとは、よほどのことがあったのだろう。
「皇后よ、何用か。」
慶成帝の声には、警戒と興味が入り混じっていた。
皇后は一礼し、静かに口を開く。
「陛下。今、葉貴妃が申し上げたことは、果たしてどこまで事実でございましょうか。」
葉貴妃がわずかに顔をこわばらせた。
「私の言葉が信じられない、と?」
皇后はそれに答えず、ゆっくりと続ける。
「そもそも、後宮の采女たちがどのように振る舞おうと、それは私の監督するべき事柄。もしも不審な動きがあれば、陛下ではなく、私にまず知らせるのが筋というものでしょう。」
葉貴妃が眉をひそめた。
「ですが——」
「ならば、なぜ貴妃はこの件を、私ではなく陛下に直接進言なさるのです?」
葉貴妃の表情が一瞬止まる。
皇后は微笑んだまま、核心を突いた。
「まるで、陛下のお心を動かし、後宮の裁量を私から奪おうとしているかのようですね。」
ピシッ、と空気が張り詰めた。
葉貴妃は即座に反論しようとするが——。
「……葉貴妃。」
慶成帝の声が低く響いた。
「お前の言うことに、理はある。だが、皇后の言葉にもまた、一理ある。」
葉貴妃の顔色がわずかに変わる。
「陛下……!」
「私は、後宮の内政には直接関与しない。 それが基本の方針だ。ならば、葉貴妃、皇后の管理下にある事柄を、なぜわざわざ朕のもとへ持ち込む?」
冷たい視線が、葉貴妃を射抜く。
「貴妃は、何を狙っている?」
葉貴妃の肩が、わずかに震えた。
この場において、皇后は確かに一歩優位に立った。
私は静かに息を吐く。
(まずは、葉貴妃の讒言を阻むことに成功した……。)
しかし——この戦は、まだ終わりではない。
葉貴妃はすぐに別の策を練ってくるだろう。
私は皇后のそばに立ちながら、さらなる一手を考え始めた。




