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 第十節 沈貴人の価値

 第十節 沈貴人の価値


 蘭雪は静華宮を辞し、夜の冷たい空気を感じながら歩いていた。


 皇后が沈貴人を守ると決断したのは大きな前進だった。


 だが、それだけでは足りない。


(沈貴人様の「価値」を示す……)


 ただの寵妃としてではなく、後宮にとって、そして皇帝にとって必要不可欠な存在であると証明しなければならない。


 そうすれば、魏尚の思惑も容易には通らなくなるはずだ。


(……何ができる?)


 沈貴人様の特技、彼女の強み……それを最大限に活かす方法。


 蘭雪は考えを巡らせながら、ふと立ち止まった。


 ——そうだ。


 沈貴人様は、かつて詩文に秀でた才媛だった。


 その才能を生かせば——。


 ***


 翌朝、蘭雪は翡翠殿を訪れた。


 沈貴人は、几帳の奥で静かに琴を弾いていた。


「蘭雪……?」


 彼女は手を止め、優雅に顔を上げた。


「お話ししたいことがございます」


 蘭雪は静かに言った。


 沈貴人は微笑み、侍女たちを下がらせた。


「何か策があるのね?」


 蘭雪は頷き、慎重に口を開いた。


「——沈貴人様の詩才を、後宮に示しましょう」


 沈貴人の目がわずかに見開かれる。


「詩才を……?」


「はい。後宮には、定期的に詩会が開かれると聞いております。もしそこで沈貴人様が才を示せば——」


「……私が、詩を?」


 沈貴人は静かに琴の弦を撫でながら、思案するように目を伏せた。


 彼女はかつて、皇帝の前で詩を詠み、その才を認められたことがある。


 だが、それはすでに過去の話。


 今や彼女は孤立し、影を潜めるしかない立場にある。


「……無理よ」


 沈貴人は小さく笑い、かぶりを振った。


「今さら詩を詠んだところで、誰が聞くの? 誰が私を認めるというの?」


 蘭雪は静かに沈貴人の目を見つめた。


「沈貴人様、これは戦いです」


「——詩を詠むことが、戦い……?」


「そうです。魏尚様に狙われる今、沈貴人様が静かにしているだけではいずれ排除されてしまうでしょう」


「ですが、ご自身の価値を示せば話は別です。詩会で才を示し、皇后様がそれを評価すれば——」


「皇后様が、私を庇いやすくなる……」


 沈貴人は小さく息を吐き、目を閉じた。


 蘭雪は静かに続けた。


「——これは、沈貴人様を守るための戦いです」


 沈貴人はしばし沈黙し、やがてゆっくりと目を開いた。


 その瞳には、微かな光が宿っていた。


「……いいわ。詩会に出ましょう」


 蘭雪は静かに微笑んだ。


「では、準備を進めます」


 沈貴人の詩才を示す機会——後宮詩会。


 これが、沈貴人を守るための次なる一手となる。


 ***


 後宮の奥深く、春の訪れを告げる梅の香りが漂う中、後宮詩会の準備が着々と進められていた。


 後宮の詩会は、単なる雅な遊びではない。


 詩文の才は、妃嬪たちの教養と品格を示す重要な要素。


 そこで優れた詩を詠めば、皇帝の目に留まり、後宮での地位を確立するきっかけとなる。


 逆に、つまらぬ詩を詠めば、笑い者になり、評価を下げることにもなりかねない。


(沈貴人様の詩才が、この場で証明されれば——)


 蘭雪は静かに会場を見渡した。


 宴が開かれるのは、霞苑かえんと呼ばれる広間。


 天井には繊細な細工の施された灯籠が下がり、壁には王朝の名詩が刻まれた屏風が並ぶ。


 すでに妃嬪たちが集まり、華やかな衣装がまるで花のように咲き誇っている。


 沈貴人も、控えめながらも上品な薄桃色の衣をまとい、席についていた。


「——皇后様、ご到着です」


 宦官の声が響き、静華宮の女官たちが整列する。


 その中心に立つのは、金刺繍の衣をまとった皇后・沈麗華しんれいか


 気品と威厳を兼ね備えた姿に、妃嬪たちは一斉に頭を下げる。


「皆の者、顔を上げなさい」


 柔らかながらも確固たる声が響く。


 皇后が手を軽く振ると、妃嬪たちは顔を上げ、詩会が正式に始まった。


「——では、詩会を始めましょう」


 宦官が合図をすると、琵琶と琴の音が流れ、詩会の幕が開く。


 ***


「まずは、どなたか詩を詠みたい者は?」


 皇后の言葉に、一人の妃が立ち上がった。


「では、私めが」


 それは麗儀れいぎ——側室の一人で、皇后派に属する妃である。


 彼女は優雅に歩み出て、朗々と詩を詠んだ。


「春風が庭を巡り、梅の花が微笑む」

「けれども月影は儚く、ひとたび散れば戻らず」


(美しい詩だけれど、型どおりね)


 蘭雪は静かに考えた。


 妃嬪たちは麗儀の詩に拍手を送り、皇后も微笑んでいる。


「見事な詩ですわ」


「ありがとうございます、皇后様」


 麗儀が席に戻ると、別の妃が立ち上がり、また一つ詩を詠んだ。


 こうして詩会は進んでいき——ついに、沈貴人の番が巡ってきた。


「……沈貴人、いかがですか?」


 皇后が静かに促す。


 沈貴人は深く息を吸い、ゆっくりと立ち上がった。


 沈黙が広がる。


 妃嬪たちの視線が一斉に沈貴人に注がれた。


(大丈夫……沈貴人様なら)


 蘭雪は信じていた。


 沈貴人は、そっと目を閉じ、そして詠んだ。


「雲は霞み、春はすでに遠く——」

「紅梅は枝に留まり、なお散らず」

「待つ心は風に揺れ、ただ静かに春を偲ぶ」


 ——一瞬、場が静まる。


 そして、誰かが息を呑む音が聞こえた。


(……見事)


 蘭雪は思わず息をするのも忘れるほどだった。


 沈貴人の詩は、単なる春の風景ではなく、自らの境遇を隠喩していた。


 かつて寵愛を受けながらも今は孤立し、それでもなお、誇りを持って生きる——。


 妃嬪たちの表情が変わる。


 皇后は目を細め、微かに笑った。


「……素晴らしい詩ですね」


「……過分なお言葉にございます」


 沈貴人は静かに一礼する。


 次の瞬間——。


「確かに美しい詩ですが」


 低い声が響いた。


 場の空気が張り詰める。


 蘭雪はそっと声の主を見る。


 そこにいたのは——貴妃・葉容華(ようようか。


 皇后に次ぐ地位を持つ、冷徹な美貌の女性。


 彼女は微笑みながら、沈貴人をじっと見据えた。


「——この詩は、まるで自らを紅梅に例えたかのよう」


「つまり、沈貴人はご自身が、散ることのない紅梅……今もなお寵愛を受ける妃であるとおっしゃりたいのですか?」


 妃嬪たちがざわめく。


 沈貴人は表情を変えずに佇んでいたが、確かに葉容華の言葉には罠があった。


 このまま何も言わなければ、沈貴人は「皇帝の寵愛を求める野心家」と見られてしまう。


 だが、否定すれば詩の意味が損なわれる。


(……ここで沈貴人様がどう返すかが、勝負)


 蘭雪は沈貴人を見つめた。


 沈貴人は、そっと微笑んだ。


「——貴妃様の慧眼には、恐れ入ります」


「ですが、この詩に込めた想いは、寵愛を乞うものではありません」


「ただ、春の訪れを待ち、静かに咲き続ける紅梅の心情——」


「それは皇后様のご威光を讃えるものにございます」


 葉容華の目がわずかに細められる。


 沈貴人の言葉は、詩の意味を巧みに転じた。


 ——私は寵愛を求めてなどいない。


 ただ、皇后様を仰ぎ見る紅梅なのだ、と。


 妃嬪たちが驚いたように沈貴人を見る。


 皇后は微かに微笑み、杯を手にした。


「——見事な詩です」


 その言葉が下されると、場が一気に和らいだ。


 沈貴人の詩才は、確かに認められたのだ。


 蘭雪は、そっと息を吐いた。


(——これで、沈貴人様の価値は示せた)


 しかし——。


 沈貴人の詩を見ていたもう一人の影が、静かに目を細めていた。


 魏尚である。


 彼は笑みを浮かべながら、酒杯を軽く傾けた。


「——なるほど」


 その目には、冷ややかな光が宿っていた。


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