第百二十五節 ——沈逸の策
第百二十五節 ——沈逸の策
私は沈逸に小さく視線を送った。
(……ここは、彼に任せるべきだ。)
沈逸は私の意図を察したのか、わずかに唇を歪めると、一歩前に出た。
「……さて、少しばかり厄介だな。」
彼はそう呟くと、扇を軽く揺らしながら、ゆったりと宦官たちへと歩み寄る。
「おい、お前たち。」
宦官たちは驚き、直立する。
「夜更けに何用ですか?」
沈逸は扇を閉じ、涼しげに笑った。
「今夜の皇后様のお世話係を知っているか?」
宦官たちは顔を見合わせる。
「え……? それは、李公公ですが……。」
沈逸は軽く頷き、さらに言葉を続ける。
「そうか、ならば話が早い。李公公に伝えよ。『翰林院の沈が話がある』と。」
宦官たちは一瞬、緊張した表情を見せた。
(沈逸の名を出したことで、動揺している……。)
彼の名は宮中でも広く知られている。下手な対応をすれば、後で自分たちが咎めを受けるかもしれない、と考えているのだろう。
「……少々お待ちください。」
宦官の一人が小走りで坤寧宮の中へと入っていった。
◇
やがて、数分後——。
戻ってきた宦官は、少し息を切らしながら言った。
「沈大人、李公公が**『少しならお時間を作れる』**とのことです。」
沈逸は満足げに頷き、私に小さく目配せをする。
(……行ける!)
私は内心安堵しつつも、表情を崩さぬようにしながら、沈逸の後に続いた。
◇
坤寧宮の奥、皇后の間へと続く廊下——。
(ついに、皇后様とお会いできる……。)
しかし、その時——。
「お待ちなさい。」
突如、冷たい声が響いた。
私は足を止め、沈逸も僅かに目を細める。
そこに立っていたのは——
葉貴妃の腹心、馮蓮だった。
私は背筋を伸ばし、堂々と馮蓮を見据えた。
「馮采女、これは李公公の許可を得た上でのこと。 邪魔をされる理由はありません。」
馮蓮は微かに目を細める。
「……李公公の許可?」
「ええ、私たちを通すようにと、確かにお伝えいただきました。」
私の揺るぎない態度に、馮蓮は慎重に沈黙した。
沈逸が扇を軽く開き、涼やかに口を開く。
「馮采女、君は葉貴妃の側近だったな?」
馮蓮は沈逸を見据えながら、静かに頷く。
「そうですが、それが何か?」
「ならば君も理解しているはずだ。」
沈逸は扇を閉じ、ゆっくりと馮蓮へと歩み寄る。
「李公公の許可がある以上、これを妨げれば、君は皇后様への『不敬』を問われることになる。」
馮蓮の表情がわずかに強張る。
(沈逸の言う通り……。)
李公公は坤寧宮の宦官の長であり、皇后に仕える立場。彼の許可を無視すれば、葉貴妃の側近である馮蓮といえど、処罰の対象になりかねない。
(……どうする?)
馮蓮の視線が鋭く揺れる。
しかし次の瞬間——。
「……結構です。」
彼女は一歩後ろへ下がり、道を開けた。
「李公公の許可があるのなら、私は止めません。」
私と沈逸は互いに視線を交わし、そのまま皇后の間へと進む。
◇
扉の前まで来ると、中から低い声が響いた。
「入れ。」
沈逸が扉を軽く押し開け、私が一歩踏み込む。
そして——
私は、皇后とついに対峙した。
◇
皇后、蕭氏。
白く美しい顔立ちだが、どこか冷ややかで、威厳に満ちた瞳を持つ。
その瞳が、私を静かに見つめていた。
「……宦官の姿で来るとは、なかなかの策を弄したものだな。」
私は深く膝をつき、低頭する。
「皇后様に、真実をお伝えしたく存じます。」
皇后の瞳がわずかに細められる。
「……真実?」
「はい。陛下が皇后様を遠ざけている理由——それは、葉貴妃の策略によるものです。」
皇后の指が微かに動く。
「……ほう。」
「葉貴妃は、陛下と皇后様の間に不和を生じさせるため、宦官や女官を操り、偽りの情報を流しております。」
沈逸が静かに続ける。
「その証拠を、近日中にお持ちいたします。」
皇后は沈黙したまま、じっと私たちを見つめていた。
——この瞬間が、勝負だった。
私は深く頭を下げ、静かに言葉を紡いだ。
「皇后様こそが、後宮の正統なる主でございます。」
沈逸が目を細め、皇后の反応を静かに窺う。
皇后、蕭氏は微動だにせず、私を見つめた。
「……お前は、何者だ?」
その声は静かでありながら、鋭さを帯びている。
私は、ゆっくりと顔を上げた。
「蘭雪と申します。」
「蘭雪……。」
皇后はその名を繰り返し、冷ややかに微笑んだ。
「お前の名前は聞いたことがある。最近、陛下が目をかけている女官……いや、采女だったか。」
その言葉には含みがあった。
(……皇后様は、私を試している。)
私は静かに頷き、毅然とした声で答えた。
「はい。ですが、私は陛下の寵愛を求めるために参ったのではありません。」
「ならば、何のために?」
私は視線を真っ直ぐ皇后に向ける。
「後宮の秩序を取り戻すために、皇后様のお力をお借りしたく存じます。」
皇后の眉がわずかに動く。
沈逸が静かに扇を開き、言葉を添えた。
「皇后様、今の後宮では葉貴妃の影響力があまりにも強すぎる。 陛下さえも、誤った情報を流され、皇后様を遠ざけるよう仕向けられています。」
「……。」
皇后は沈黙し、思索するように指先で杯をなぞった。
私は畳みかける。
「しかし、それを正せるのは皇后様しかおりません。皇后様が動かれるのであれば、私はいかなる策でもお支えいたします。」
皇后の瞳が、じっと私を射抜く。
長い沈黙が流れた。
やがて、皇后はゆっくりと口を開く。
「——私のために、そこまでする理由は?」
試すような問いだった。
私は、迷わず答える。
「私は、正しき主のもとでこそ、後宮があるべきと考えております。」
皇后の目が細められる。
「……随分と、言葉が巧みだな。」
沈逸が扇を軽く閉じる。
「それが蘭雪という女です。」
皇后はふっと微笑み、杯を置いた。
「面白い。」
その一言に、私はわずかに安堵した。
——この瞬間、私は皇后の信頼を得る足掛かりを作った。
◇
だが、その時——。
「皇后様、大変です!」
突然、外から女官が駆け込んできた。
「何事か。」
皇后が静かに問うと、女官は息を切らしながら言った。
「葉貴妃様が陛下を訪ねられ、蘭雪様の悪事を訴えておられます!」
「……何?」
私は、拳を握りしめた。
(やはり……!)
葉貴妃は、私の動きを察知し、先手を打ったのだ。
(このままでは、陛下の信頼を失う可能性がある……。)
沈逸が扇を持つ手をわずかに強める。
「葉貴妃が何を画策しているのか、確認しなければなりません。」
私は素早く皇后に向き直る。
「皇后様、どうか——この場で葉貴妃の動きを封じる策を!」
皇后はじっと私を見つめ、静かに言った。
「……よかろう」




