第百二十二節 闇に現れた者
第百二十二節 闇に現れた者
(……この機会を逃すわけにはいかない)
私は沈逸に小さく頷き、そっと扉の外の様子をうかがった。
静寂を切り裂くように、ゆっくりと扉が開く。
そこに立っていたのは——
柳慶だった。
(……!)
私は息をのんだ。
宦官たちが、慌ててひざまずく。
「柳慶様……!」
「お前たち、今の話を誰かに聞かれてはいないだろうな?」
柳慶の声は低く、鋭い。
「も、もちろんです! この部屋には、我々以外——」
柳慶の視線が、一瞬だけ辺りを探る。
(……気づかれるか?)
私は身を縮め、闇に溶け込んだ。
柳慶は、しばらく沈黙した後、低く言った。
「葉貴妃様の意向は変わらない。準備を進めろ」
「……はっ」
「ただし——」
柳慶の声がさらに低くなる。
「予定よりも、早めることになった」
宦官たちが顔を上げた。
「そ、それは……?」
「次の機会を待つ必要はない。近いうちに、決行する」
私は沈逸と目を合わせた。
(……決行? 何かが起こる)
沈逸が、かすかに扇を動かし、目で「どうする?」と合図を送る。
(……もう少し、核心に迫れるはず。)
私は息を殺し、さらに耳を澄ませた。
柳慶は低く、しかし明瞭な声で告げる。
「葉貴妃様は、次の薬湯の時に決行するとお決めになった」
「次の薬湯……つまり、三日後ですね」
(三日後——!)
私は内心で驚くも、表情は崩さないように慎重に息を整える。
「……柳慶様、それはつまり強い薬を使うということで?」
宦官の一人が、不安げに尋ねる。
「……ああ」
柳慶の目が鋭く光る。
「少しずつ陛下を弱らせるだけでは、足りぬ。 陛下には、より明確な症状が必要だ」
「それは、つまり……?」
「発熱、眩暈、ひどい衰弱——歩くこともままならぬほどの症状だ。」
(……!)
沈逸もわずかに眉をひそめる。
柳慶はさらに続けた。
「しかし、命を奪うつもりはない。あくまで、陛下を動けなくするだけだ」
「……その狙いは?」
「その間に、後宮の勢力を一気に動かす」
宦官たちが息をのむ。
「つまり……葉貴妃様が後宮を掌握するということですか?」
柳慶は静かに頷いた。
「太后様も、皇后様も、手出しはできぬ。動けぬ皇帝に代わり、後宮を仕切るのは葉貴妃様しかいない」
私は胸の奥でざわめきを感じる。
(……つまり、葉貴妃は一時的に皇帝を無力化し、その間に後宮の権力を完全に掌握するつもりなのか)
(もしそれが成功すれば、皇帝が回復する頃には、後宮はすでに葉貴妃のものになっている……!)
沈逸が目で「そろそろ引くべきだ」と合図を送る。
私も頷く。
(今の情報があれば、対抗できる……)
だが、その瞬間——
「……誰だ?」
柳慶が、こちらをじっと見つめた。
(……!?)
宦官たちが息をのむ。
柳慶は鋭い視線を向けながら、ゆっくりと近づいてくる。
「今、そこに気配を感じた」
(まずい……!)
(……気をそらさなければ。)
私は素早く懐に手を伸ばし、小さな飾り玉を取り出した。
(これを……向こうへ——!)
沈逸も私の意図を察したのか、微かに頷く。
柳慶がこちらへ近づいてくる——その刹那。
カラン——ッ!
私は素早く飾り玉を、部屋の反対側へ転がした。
その音が、静寂の中に響く。
柳慶が目を細める。
「……?」
彼は音のした方向に目を向け、宦官たちもそちらを気にし始めた。
(今だ——!)
私は沈逸と目を合わせ、一気に身を翻す。
静かに、しかし素早く影の中を滑るように抜け出した。
柳慶はしばらく音のした方向を探っていたが、やがて眉をひそめる。
「……気のせいか?」
宦官の一人が、おそるおそる言う。
「ね、鼠かもしれません……」
柳慶はしばらく考え込んだが、やがて低く息を吐いた。
「……いいだろう。だが、用心しろ」
「は、はい!」
その会話を背後に聞きながら、私は沈逸とともに静かに闇の中を抜け、離れることに成功した。
◇
しばらく歩いた後、安全な場所まで戻ってきた。
沈逸が、ようやく小さく息を吐く。
「……見事な判断だったな」
「あなたもね」
私は沈逸を見上げ、小さく微笑む。
(これで、重要な情報を得ることができた——)
三日後、葉貴妃が動く。
そのとき、皇帝は動けなくなる。
つまり、それまでに手を打たなければならない。
沈逸が扇を軽く開き、静かに言った。
「さて、これからどう動く?」
「皇帝陛下に直接伝えます。」
私の言葉に、沈逸がわずかに目を細める。
「……随分と思い切った選択をするな」
「悠長に構えていられません」
私は静かに言う。
(葉貴妃の計画が実行されるまで、あと三日)
それまでに対策を講じなければ——陛下は動けなくなり、葉貴妃が後宮を掌握することになる。
後宮の権力が逆転すれば、私の立場も危うい。
沈逸は扇を軽く閉じると、静かに微笑んだ。
「……ならば、手助けしよう」
「感謝します」
私は深く頷いた。
◇
翌日。
私は慎重に機を見計らい、夜更けの御殿へと足を運んだ。
皇帝——慶成帝は、宦官たちを下がらせ、ただ一人、書を広げていた。
燭台の灯りが揺れ、彼の漆黒の髪を淡く照らしている。
「夜更けに何の用だ?」
深い黒曜石色の瞳が、私を静かに見つめる。
私はひざまずき、静かに口を開いた。
「陛下、重大な報告がございます」
彼は筆を置き、私をじっと見つめる。
「聞こう」
私はゆっくりと、慎重に言葉を選びながら葉貴妃の計画を伝えた。
——三日後の薬湯に、強い薬が仕込まれること。
——目的は、陛下の命を奪うのではなく、一時的に無力化すること。
——その間に葉貴妃が後宮を掌握し、太后や皇后の影響力を排除しようとしていること。
すべてを語り終えたとき、室内は静寂に包まれていた。
慶成帝は目を伏せ、ゆっくりと指で机を叩く。
「……つまり、私を“生かしたまま”排除しようとしているわけだな」
「はい」
彼は沈黙したまま、しばらく考え込む。
やがて、冷ややかに笑った。
「……面白い」
その声音は、静かでありながら底知れぬ威圧感を帯びていた。
私は僅かに息をのむ。
「ならば……この機を利用するとしよう」
「陛下……?」
「蘭雪」
彼の黒曜石の瞳が、鋭く光を宿す。
「お前もこの策に加わる気はあるか?」
(……!)
つまり、これは——葉貴妃の計画を逆に利用し、彼女を陥れる策を講じるということ。
(陛下は、すでに反撃の算段を立てている……)
私は深く息を吸い、答えを出さなければならない。




