第百十九節 陛下の容態
第百十九節 陛下の容態
私は迷わず沈逸に向き直った。
「陛下の容態を直接確認しに行きます」
沈逸は静かに扇を閉じると、目を細めた。
「……危険ですが、止めても無駄でしょうね」
私は頷いた。
(魏尚は明らかに何かを隠している。柳慶も……あの様子では、真実を話すつもりはないだろう)
ならば、自分の目で確かめるしかない。
私は沈逸と共に、宮廷の医局へと向かった。
◇
宮廷の医局は緊迫した空気に包まれていた。
廊下には宦官や侍女がひそひそと噂をしている。
「陛下が突然……」
「やはり、最近のご体調が——」
私たちが足を踏み入れると、宦官たちは驚いたようにこちらを見た。しかし、誰も止めようとはしない。
奥の部屋には太后と魏尚がすでに入っているようだった。
沈逸が低く囁く。
「私が話をつけましょう。蘭雪嬪は、陛下の容態を確かめてください」
私は小さく頷き、静かに陛下の寝所へと向かった。
◇
寝所に入ると、そこには慶成帝が横たわっていた。
(陛下……!)
彼の顔色はいつもより悪く、呼吸も浅い。
私は近づき、そっと手を取った。
(冷たい……!)
「……陛下」
その時——
「蘭雪……?」
微かに聞こえた声に、私は驚いて顔を上げた。
慶成帝が、ゆっくりと目を開いたのだ。
黒曜石のような瞳が私を捉える。
「お前か……?」
「陛下!」
私は思わず手を握る。
慶成帝は苦しげに眉を寄せながらも、微かに微笑んだ。
「……来たのか」
「はい」
その瞬間、部屋の奥で声がした。
「陛下、お目覚めになりましたか?」
魏尚が入ってきた。
彼の目が、私と陛下の繋いだ手を見つめる。
(……!)
私はそっと手を引いたが、慶成帝はまだ微かに私の指を握っていた。
魏尚は表情を変えずに近づき、脈を取る。
「……まだ不安定ですが、大事には至りません」
私は問いかけた。
「陛下は、どのような症状だったのですか?」
魏尚は冷静に答える。
「突然、胸の痛みを訴え、倒れられました」
(胸の痛み……?)
華胥散の影響か、それとも別の何か……?
私は口を開こうとしたが——
「陛下はお休みにならねばなりません」
魏尚ははっきりとした口調で言った。
「蘭雪嬪、どうかお引き取りを」
私は迷った。
(まだ確かめたいことがある……)
魏尚の視線が、静かに私を牽制する。
だが——私は引くつもりはなかった。
(ここで退いては、何も分からずに終わってしまう)
私は慶成帝の手を握り直し、そっと問いかけた。
「陛下、ご自身の体調について、何かお気づきのことはございませんか?」
魏尚がわずかに目を細める。
しかし、慶成帝は私の方を向き、低く答えた。
「……最近、時折、胸に重い痛みを感じていた」
私は息をのんだ。
(やはり……!)
「それは、いつ頃からでしょうか?」
「……」
慶成帝はしばらく考え込み、ゆっくりと言った。
「三日前からだ」
三日前——。
それは、華胥散が仕込まれた可能性のある時期と一致する。
魏尚は穏やかな口調で口を挟んだ。
「陛下、ご無理はなさらず。蘭雪嬪、これ以上の詮索は——」
しかし、その言葉を遮るように、慶成帝が再び口を開いた。
「……それだけではない」
私は身を乗り出した。
「それだけではない、とは?」
慶成帝の黒曜石の瞳が、深く私を見つめる。
「——今朝、目覚めた時、体が思うように動かなかった」
「!」
魏尚の表情が、一瞬だけ揺らいだ。
私は素早くその変化を捉える。
(……魏尚は、このことを知っていたのでは?)
「陛下、それは……初めてのことですか?」
私の問いに、慶成帝はゆっくりと頷いた。
魏尚が静かに進み出る。
「蘭雪嬪、お時間です」
彼は、これ以上は話させないという強い意志をにじませていた。
しかし、私はなおも食い下がる。
「陛下、最近、お食事の味に変化を感じることはありませんでしたか?」
魏尚が小さく息をつく。
「もう十分です」
だが——
「……確かに」
慶成帝がぽつりと言った。
魏尚の目が鋭く細められる。
「味が……わずかに違うと感じたことがあった」
(やはり……!)
私は確信に近づいている。
しかし——
「——出ろ」
魏尚がはっきりとした声で言った。
その瞬間、外から足音が近づく。
扉の向こうで、沈逸の冷静な声が響いた。
「蘭雪嬪、そろそろお戻りください」
魏尚は私を見据え、改めて言った。
「陛下のご静養を妨げることは許されません」
私は唇を噛みしめた。
(……今は、これ以上無理はできない)
慶成帝にもう一度視線を向ける。
陛下は私を見つめたまま、かすかに微笑んだ。
「……ありがとう」
その言葉に、私はわずかに安堵し、深く一礼した。
(必ず、真相を突き止めてみせます)
私は静かに部屋を後にした。




