第百十節 皇帝の寵愛と権力闘争(6)
第百十節 皇帝の寵愛と権力闘争(6)
夜の帳が下り、静寂に包まれた後宮。
蘭雪は淡い香を纏いながら、慶成帝のもとへ向かっていた。
(沈貴人の失策を利用して、私はこの場を優位に進めた……しかし、これが本当に私の望んだ展開かしら)
皇帝の寵愛を受けることは、この後宮で生き残るための有効な手段。しかし、それだけに頼るつもりはない。
慎重に歩みを進めるうちに、御殿の前にたどり着いた。侍従が扉を開くと、そこには慶成帝が静かに座していた。
黒曜石の瞳が、まっすぐに蘭雪を捉える。
「参りました、陛下」
蘭雪は深々と礼をする。
慶成帝は扇を閉じ、低い声で言った。
「座れ」
蘭雪はゆっくりと席に着く。
「そなたのことを、余は興味深く思う」
静かな声。
「この後宮に来て間もないというのに、余の関心を引く者は、そう多くはない」
蘭雪は微笑みながら、慎重に言葉を選んだ。
「光栄に存じます。しかし、私はただ陛下のお心を乱さぬよう努めているだけでございます」
「乱さぬよう……か」
慶成帝の唇に微かな笑みが浮かぶ。
「だが、そなたの存在そのものが、すでにこの後宮を乱している」
蘭雪はその言葉の真意を探るように、そっと視線を上げた。
「陛下、私は……」
「そなたは沈貴人を助けたな」
その言葉に、蘭雪は内心で驚いた。
(やはり、すべてを見抜かれている……)
「……助けたというよりも、場を収めるためでございます」
「場を収めるためならば、沈貴人をさらに追い詰める手もあったはず」
蘭雪は微かに微笑んだ。
「陛下のご判断を信じていたまでのこと」
「ほう?」
慶成帝の黒曜石の瞳が、蘭雪の瞳を覗き込むように細められる。
「そなたは、余の考えを見通していたと?」
蘭雪はゆっくりと首を傾げた。
「私ごときが、陛下の深慮を見通せるはずがございません。ただ、陛下がどのような決断をなさるか、少しだけ予想したまででございます」
慶成帝はしばし沈黙し、扇を軽く叩いた。
「面白い」
その一言に、蘭雪の心がざわめいた。
(この方は、ただの皇帝ではない。計算を超えた何かを持っている……)
「そなたは後宮の争いをどう見る?」
唐突な問いに、蘭雪は慎重に答えた。
「この後宮は、まるで水面のようです。静かに見えても、底では絶えず流れがあり、時に渦を巻く」
「その渦に飲み込まれることは怖くないか?」
「渦の流れを知っていれば、飲み込まれずに進むこともできましょう」
慶成帝は満足げに微笑んだ。
「そなたは、やはり興味深い」
その瞬間、蘭雪は確信した。
――この夜の会話は、試されている。
ただの寵愛ではなく、もっと別の……。
「そなたの才を、余はまだ試してみたい」
慶成帝の言葉に、蘭雪は静かに微笑み、深く頭を下げた。
「陛下のお望みのままに」
蘭雪がそう言った瞬間、慶成帝の瞳が微かに細められた。
「……そなたは不思議な女だな」
低く、穏やかながらも、どこか探るような声音。
蘭雪は微笑みを崩さぬまま、そっと視線を下げた。
「恐れながら、私はただの采女に過ぎません」
「ただの采女、か」
慶成帝は扇を軽く開き、ゆるりと仰ぐ。
「そなたは余の寵愛を望んでいるのか?」
その問いに、蘭雪の心がわずかに揺れた。
(これは……私を試している)
皇帝の寵愛を望むのが当然とされるこの後宮で、その問いを発する意図は明白だ。
「陛下のおそばに仕えることは、何よりの誉れにございます」
「それは答えになっていないな」
慶成帝の唇が、微かに弧を描く。
蘭雪は内心で息を整えた。
(正直に答えるべきか、それとも……)
思案した末、蘭雪はゆっくりと口を開いた。
「……もし、私が心から陛下の寵愛を望んでいると言えば、陛下はどのようにお答えになりますか?」
その言葉に、慶成帝はわずかに眉を上げた。
そして、静かに扇を閉じる。
「そなたは慎重だな」
「陛下の御前において、無謀な言葉を口にする愚は犯したくございません」
「ふむ……」
慶成帝は蘭雪をじっと見つめる。その視線には、単なる興味以上のものがあった。
「そなたの答え方は、まるで余に駆け引きを仕掛けているようだ」
蘭雪は静かに微笑んだ。
「とんでもございません。ただ……陛下が何をお望みかを、正しく理解したいだけです」
「余が望むもの、か」
慶成帝はしばらく沈黙した後、ゆっくりと立ち上がった。
「そなたは、この後宮に何を求めている?」
蘭雪はその問いに、慎重に答えた。
「生き抜くこと。それだけでございます」
「それだけか?」
「……現時点では、というべきでしょうか」
その言葉に、慶成帝は再び微かに笑みを浮かべた。
「ならば、そなたの行く末を見届けよう」
その瞬間、蘭雪は確信した。
――この皇帝は、私をただの采女として扱うつもりはない。
夜が更ける中、静かに流れる空気が、二人の間の新たな関係を暗示していた。
(これが、始まり……)
蘭雪は深く頭を下げ、心の奥で新たな覚悟を決めた。




