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第百九節 皇帝の寵愛と権力闘争(5)

 第百九節 皇帝の寵愛と権力闘争(5)


 沈貴人の顔は青ざめ、震える指先を袖で隠そうとしていた。しかし、その動揺を見逃す者はいなかった。


「陛下……そのお茶は、何も問題はないはずでございます。魏尚様に調べさせるなど、いささかご無体では……」


 沈貴人は必死に取り繕うが、慶成帝は冷ややかな視線を向けた。


「問題がなければ、それでよい。なぜそれほど焦る?」


 沈貴人は言葉を詰まらせた。


 蘭雪は静かにその様子を見つめながら、心の中で思案する。


(このお茶には、直接的な毒ではない……だとすれば、陛下に影響を与える何かが仕込まれている可能性が高い)


 たとえば、特定の香りや薬草の成分を使い、陛下の気を沈貴人へ向けさせるような策――。


(もしそうなら、この一件をうまく利用できる)


 蘭雪はそっと唇を開いた。


「陛下、沈貴人様のお気持ちもお察しいたしますが、こうして話題となってしまった以上、疑いを晴らすためにも、お調べいただくのがよろしいかと存じます」


 慶成帝は蘭雪を一瞥すると、静かに頷いた。


「余も同意見だ」


 侍従が茶器を持ち去ると、沈貴人の指先はさらに強張った。しかし、それ以上反論できず、ただ頭を垂れるしかなかった。


「……畏れながら、陛下のお心を煩わせることとなり、申し訳ございません」


 彼女の声は震えていた。


 慶成帝はそれ以上、沈貴人を咎めることなく、淡々と別の話題へ移った。


「蘭雪、そなたは詩をたしなむのだったな?」


 蘭雪は微笑を浮かべながら、慎重に答える。


「はい。ささやかなものですが」


「ならば、今ここで一句詠んでみよ」


 沈貴人が驚いたように顔を上げる。


(陛下は蘭雪にさらなる関心を持ち始めている……)


 蘭雪はしばし考えた後、静かに言葉を紡いだ。


「春風は柔らかく、花は笑む

 影落ちし水面に、月は寄り添う」


 慶成帝の唇に、わずかな微笑が浮かぶ。


「影落ちし水面に、月は寄り添う……か」


 彼は蘭雪の言葉を噛み締めるように繰り返し、その黒曜石の瞳を細めた。


「良い詩だ」


 蘭雪は静かに一礼した。


 沈貴人は何かを言いたげだったが、今は口を挟める状況ではなかった。


 その瞬間、遠くから足音が近づいてきた。


 魏尚の低い声が響く。


「陛下、お茶の件について、ご報告がございます」


 沈貴人の顔がさっと血の気を失った。


(さて、どう出るのかしら……)


 蘭雪は心の中で微笑んだ。


 後宮の闇は、さらに深まりつつあった――。




 御花園に静寂が満ちた。


 魏尚が一歩進み出ると、沈貴人の指先が微かに震えるのが見えた。


「陛下、先ほどのお茶について調べましたところ……」


 魏尚は言葉を区切り、沈貴人を一瞥する。


「毒は検出されませんでした」


 沈貴人が安堵の息をついたのを、蘭雪は見逃さなかった。


(やはり、毒ではない……では、何を仕掛けたの?)


 魏尚は続ける。


「ですが、ある特定の香料が多く含まれておりました。これは南方で催眠効果があると言われるもので、長く摂取すると精神が鈍り、判断力が鈍くなることがございます」


 慶成帝の表情が冷えた。


「……ほう」


 沈貴人はすぐに跪き、慌てた声を上げた。


「陛下! それは誤解でございます! 私は決して、陛下を害するつもりなど――!」


「害するつもりはなくとも、結果的に余の判断を鈍らせようとしたことに変わりはない」


 沈貴人の顔から血の気が引く。


 蘭雪は沈貴人の表情を観察しながら、慎重に言葉を選んだ。


「沈貴人様、それほど貴重なお茶を献上されたというのに、なぜご自身ではお飲みにならなかったのですか?」


「そ、それは……」


 沈貴人は言葉を詰まらせる。


 蘭雪は微笑を崩さず、静かに続けた。


「陛下にお仕えする者として、陛下にとって最善のものをお勧めするのが務め。しかし、ご自身で召し上がらないものを陛下に差し上げるのは、不自然ではありませんか?」


 沈貴人の唇が震える。


「そ、それは……」


「沈貴人」


 沈貴人が慶成帝の冷ややかな声に震えた。


「余の判断を鈍らせようとした理由を聞こう」


 沈貴人は必死に考えを巡らせるが、すでに逃げ道はなかった。


(この場では決定的な罰は与えられないでしょう。でも、沈貴人の立場は確実に揺らぐ……)


 蘭雪は内心そう考えながら、沈貴人の反応を待った。


 やがて、沈貴人は震える声で言った。


「……申し訳ございません。私は……ただ、陛下のお気持ちを少しでも癒やしたいと思い、そのようなお茶を……」


 必死に弁明する沈貴人を見て、蘭雪は微かに微笑む。


(ここで決定的に追い詰めるのは得策ではないわ。むしろ……)


「陛下、沈貴人様も悪気があったわけではないでしょう」


 蘭雪が優しく言うと、沈貴人が驚いたように顔を上げた。


「……蘭雪様?」


「ただ、陛下にお仕えする以上、慎重さが必要です。どんなに良かれと思ったことでも、結果として陛下のお気持ちを損ねるようでは、本末転倒かと」


 蘭雪の言葉に、慶成帝は目を細める。


「……その通りだな」


 沈貴人は必死に縋るような目で蘭雪を見つめる。


 蘭雪は、沈貴人が自分に借りを作ったと理解していた。


(あなたが助かったのは、私が助け舟を出したから――そのことを忘れないで)


 沈貴人は震える声で答えた。


「……陛下、深く反省いたします」


 慶成帝は冷ややかなまま言った。


「しばらく慎め。今後、勝手な行動は許さぬ」


「は……っ」


 沈貴人が頭を垂れる。


 その様子を見ながら、蘭雪はそっと目を伏せた。


(これで沈貴人はしばらく動けなくなる。あとは……)


 慶成帝が蘭雪に目を向ける。


「蘭雪」


「はい」


「そなたの機転には、感心することが多いな」


 蘭雪は静かに微笑んだ。


「恐れ入ります、陛下」


「今夜、余のもとへ参れ」


 その言葉に、沈貴人の顔が凍りつく。


(……思った以上に、大きな動きになったわね)


 蘭雪は静かに一礼した。


「お側に参ります」


 沈貴人が握りしめた拳を震わせるのを感じながら、蘭雪は皇帝の視線を受け止めた。



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