第百六節 皇帝の寵愛と権力闘争(2)
第百六節 皇帝の寵愛と権力闘争(2)
沈芷蘭を追い返した後、蘭雪はしばらく茶の盆を見つめていた。
「……わかりやすい罠ね」
そばに控えていた杏児が、心配そうに声を潜める。
「お嬢様、やはり葉貴妃様の差し金でしょうか?」
蘭雪は微笑したが、その目は冷静だった。
「おそらくね。けれど、この程度なら取るに足らないわ」
葉貴妃の狙いは明白だ。もし蘭雪が茶を飲めば、何らかの不調が起こり、皇帝の前に出ることができなくなる。逆に、彼女が疑って騒ぎ立てれば「被害妄想の強い女」として嘲笑の的になるだろう。
「陛下の関心を引いたといっても、まだ根を張ったわけではない。ここで軽率な行動をとれば、相手の思うつぼね」
蘭雪はそう言いながら、手元の筆を取り上げ、さらさらと何かを書きつけた。
「杏児、これを太后様のところへ届けて」
杏児が紙を受け取り、目を瞬かせる。
「太后様へ……?」
「ええ。葉貴妃の動きを、少しだけ牽制しておくのよ」
蘭雪はにこりと笑いながら、手を振った。
「さあ、行ってらっしゃい」
杏児は頷き、急ぎ足で部屋を出て行く。
蘭雪は静かに茶の盆を片付けると、外の夜空を見上げた。
――この戦いは、まだ始まったばかり。
翌日、後宮の空気が微かに変わった。
葉貴妃の元へ、太后からの召しが届いたのだ。
「まあ、太后様が……?」
葉貴妃は微笑を保ちつつも、内心では警戒していた。
(まさか、昨日の茶の件が……?)
しかし、表向きは何事もないふりをしながら、太后の元へ向かった。
太后の宮殿に入ると、すでに几帳の向こうに威厳ある姿が見える。
「葉貴妃、最近の後宮の様子はどうですか?」
太后は穏やかに問いかけたが、その目はすべてを見透かすようだった。
葉貴妃は慎重に答える。
「はい、陛下のお心も平穏で、皆、変わりなく過ごしております」
太后は微かに笑った。
「そうですか。それならよいのですが……」
そこで一瞬、間を置いた後、ゆっくりと言葉を続けた。
「……妙な噂があるのです。ある采女に対して、不穏な動きがあるとか」
葉貴妃は扇を軽く持ち直しながら、穏やかに微笑を返した。
「まあ、それはどなたのことでしょう?」
太后は目を細めた。
「……さあ、葉貴妃。あなたなら、何か知っているのではありませんか?」
その場の空気が、ひやりと張り詰める。
葉貴妃はゆるりと膝を折り、恭しく答えた。
「太后様が仰せならば、慎んで耳を傾けますわ」
「ならば、よく聞きなさい。私は後宮が穏やかであることを望みます。くだらぬ策を巡らせる者がいるとすれば……私はそれを許しません」
葉貴妃は、瞬時に理解した。
(これは……蘭雪が仕掛けたのね)
沈芷蘭を通じての罠は、直接的な証拠こそないものの、蘭雪は太后に「牽制の種」を送ったのだ。そして太后がこうして動いた以上、迂闊に次の手を打てば、今度は葉貴妃自身が太后の監視下に置かれることになる。
「……心得ましたわ」
葉貴妃は、静かに頭を垂れた。
――これで、しばらくは動けない。
蘭雪……。あの娘、やはり侮れないわね。
しかし、それでも葉貴妃は微笑を崩さなかった。
太后の一言で葉貴妃の動きが一時的に封じられたことで、蘭雪はようやく束の間の静けさを得た。
しかし、これで終わるとは思っていない。
(葉貴妃ほどの女が、このまま黙っているはずがないわ)
蘭雪は慎重に動きつつも、次に来るであろう一手に備えることにした。
そして、その機会は思いのほか早く訪れた。
数日後、蘭雪は思いがけず皇帝に呼び出された。
「蘭雪、御前に」
そう告げられたとき、彼女の周囲にいた采女たちがざわめくのを感じた。
とりわけ王茜は、わざとらしくため息をつきながら囁く。
「まあ……また陛下が呼ばれたの? 最近、お気に入りなのね」
周囲の采女たちも、それぞれ複雑な表情を見せる。
蘭雪は彼女たちの反応を無視し、静かに歩みを進めた。
――皇帝の御前。
慶成帝は玉座の前に座し、傍らには沈逸が控えていた。
「参りました、陛下」
蘭雪が静かに跪くと、皇帝は鋭い眼差しで彼女を見下ろした。
「蘭雪、お前に問う。お前は詩の才があると聞いたが、それ以外にどのような学問を修めている?」
その問いに、蘭雪は一瞬考えた。
(学問……?)
詩の才についてはすでに知られているが、それ以外を問われたのは初めてだった。
沈逸が薄く微笑しながら扇を揺らす。
「陛下は、才ある者にはそれ相応の知識を求められます。蘭雪殿、貴女の見識を示す機会では?」
蘭雪は彼の言葉の意図を瞬時に悟る。
(……これは、私を試しているのね)
おそらく、これは葉貴妃が仕掛けた策ではない。むしろ、皇帝自身が蘭雪の力を測ろうとしているのだろう。
蘭雪は微笑み、落ち着いた声で答えた。
「幼き頃より、詩文のほかに史書や兵法の書を好んで読んでおりました」
皇帝が興味深そうに眉を上げる。
「ほう、兵法とな?」
「はい。『孫子』や『呉子』、さらには『六韜』なども拝読しました」
沈逸が目を細める。
「兵法を学ぶとは、なかなか興味深いことですな。蘭雪殿、では陛下にひとつお答えいただきたい。戦において最も重要なものは何でしょう?」
(……沈逸も試している)
蘭雪は静かに考え、慎重に口を開いた。
「戦において最も重要なもの……それは、兵の数でも将の武勇でもなく、『情報』かと存じます」
慶成帝の眼光が鋭くなる。
「ほう、詳しく聞こう」
蘭雪は微笑みながら言葉を継いだ。
「戦において、敵の動向を知らずに戦えば、それは暗闇で刃を振るうようなもの。たとえ百万の兵を持とうとも、敵の策を知らなければ、あっという間に敗れます」
沈逸が静かに頷いた。
「『知彼知己、百戦不殆(かれを知り、おのれを知れば、百戦して危うからず)』……孫子の言葉ですな」
蘭雪は微笑する。
「はい。それゆえ、私が学んだことは戦そのものではなく、いかにして勝ち、いかにして負けないかという術でございます」
皇帝はしばし沈黙した。
やがて、ゆっくりと微かに笑みを浮かべる。
「……面白い。蘭雪、お前は確かに只者ではないな」
蘭雪は静かに頭を下げた。
――この一言は、皇帝が彼女を認めた証だった。
蘭雪が退出した後、沈逸は皇帝を見つめた。
「陛下、彼女はなかなかの才ですね」
慶成帝は微かに笑いながら、玉座の背に身を預けた。
「蘭雪……なぜお前があの後宮の中であれほどの胆力を持っているのか、ますます気になってきた」
沈逸は扇を軽く揺らしながら答える。
「陛下は、彼女に何をお求めですか?」
皇帝は静かに目を細めた。
「それはまだ分からぬ。だが、彼女がどこまで登るか……見てみたくなった」
沈逸はその言葉に微笑し、心の中で思う。
(……さて、蘭雪殿。あなたがこの宮廷でどこまで生き抜けるのか、私も興味がありますよ)




