第百一節「試練の場」
第百一節「試練の場」
後宮に静けさが戻った深夜。
しかし、蘭雪の心は穏やかではなかった。
貴妃の宴席でのやり取りは、彼女の立場を明確にした。
貴妃は自分を警戒し、試し、そして排除しようとしている。
——ならば、自分も手を打たねばならない。
蘭雪は静かに深呼吸をし、燭台の灯りを見つめた。
この後宮で生き抜くためには、受け身でいるだけではいけない。
そんな中、翌朝、蘭雪のもとに思わぬ報せが届く。
「蘭雪様、貴妃様より御呼び出しがございます。」
——また、何か仕掛けてくる。
蘭雪は心を落ち着かせ、優雅な微笑を浮かべながら立ち上がった。
「承知しました」
そうして向かったのは、貴妃が準備した——「試練の場」だった。
「試練の場」
蘭雪が貴妃のもとに到着すると、そこにはすでに何人もの采女たちが集まっていた。
沈芷蘭、馮蓮、王茜、霍玲瓏……それぞれが微妙な表情を浮かべながら座している。
そして、貴妃・葉容華が優雅に微笑みながら、蘭雪を迎えた。
「まあ、ようこそ蘭雪。お待ちしておりましたわ」
「貴妃様、お呼びいただき光栄でございます」
蘭雪は慎重に礼を取り、貴妃の出方をうかがう。
——何を仕掛けるつもりなのか。
貴妃はゆっくりと扇を広げ、涼やかな口調で言った。
「実は、本日後宮の才を競う場を設けましたの。詩や舞、琴、書の腕を披露する場ですわ」
「後宮の采女たちが、美しき才を磨くことは大切なことですもの」
蘭雪の心が静かに揺れる。
——ただの才比べではない。
これは“私を貶めるための試練”。
蘭雪が才を示せば、他の采女たちの反感を買う。
反対に凡庸なふりをすれば、貴妃に「取るに足らぬ存在」として排除される。
どちらに転んでも、罠。
そして、貴妃は意味深に微笑み、沈逸へと目を向けた。
「沈侍講も、ぜひ御覧になっていただけますか?」
——沈逸?
蘭雪の胸がざわめいた。
まさか、沈逸までこの場にいるとは。
沈逸はゆったりと扇を閉じ、貴妃の意図を悟ったように口元を緩めた。
「もちろん、お招きに預かり光栄です」
そう言いながら、沈逸はちらりと蘭雪を見つめた。
宮殿の一角、華やかな燭光が揺れる中、「才比べ」の場が整えられた。
沈芷蘭が琴の前に座り、静かに指を滑らせる。
馮蓮は書を披露し、流れるような筆捌きを見せる。
王茜は舞を舞い、華麗な衣が舞い踊る。
そして、采女たちが次々と才を示す中、ついに蘭雪の番が巡ってきた。
貴妃・葉容華が微笑みながら促す。
「蘭雪は、どの才を披露なさるのかしら?」
蘭雪は静かに視線を巡らせた。
全ての視線が彼女に注がれている。
沈芷蘭は探るように、馮蓮は冷静に、王茜は嘲るように——。
そして、沈逸は扇をゆるりと揺らしながら、じっと見守っている。
——何を選ぶべきか。
ここでただ無難に終えるだけでは、貴妃の意図通り「取るに足らぬ存在」として扱われる。
だが、目立ちすぎれば、新たな敵を増やすことになる。
「詩を詠んではいかが?」
ふと、沈逸の静かな声が響いた。
「蘭雪は、言葉を巧みに操る才があると聞いております」
貴妃の目がわずかに細まる。
沈逸の言葉には、「蘭雪の真価を見せるべきだ」という意図が込められていた。
——これは、助け舟なのか。それとも、試練を与えているのか。
蘭雪は息を整え、ゆっくりと口を開いた。
「では、一篇詠ませていただきます」
宮殿の中が静まり返る。
彼女は、即興で詩を紡ぎ始めた——。
蘭雪は静かに立ち上がり、袖をゆるりと払う。
この場に集まる者たちは、彼女の口から紡がれる言葉を待っていた。
——ただの詩では、意味がない。
ここで貴妃や采女たちを驚かせ、なおかつ皇帝や太后に自分の価値を示さねばならない。
沈逸の視線が、静かに彼女を見つめていた。
蘭雪は、ゆっくりと詠み始める。
「秋夜静し、金樹は風に舞い」
「玉階に響く、遠き琴の音」
「誰がために、花は香るや」
「月下に立ちて、影ただ一つ」
——詠み終わると、宮殿の中はしんと静まり返った。
秋の夜、冷たい風に舞う金の葉。
美しいが、やがて地に落ちる運命。
月の光の下、一人佇む姿。
華やかさの裏に潜む孤独——。
これは、今の自分の境遇そのもの。
しかし、同時に貴妃にも、采女たちにも、皇帝にさえも響く言葉。
それぞれが、この詩の意味をどう解釈するか——それは、聞く者の心次第。
沈逸は扇を軽く打ち鳴らし、微笑む。
「見事です」
貴妃・葉容華の表情がわずかに曇る。
采女たちの中にも、息を呑む者がいた。
だが、そのとき——。
「才はあるようだが、所詮は孤影自哀」
低く響いたのは、慶成帝の声。
彼は、蘭雪をじっと見つめていた。
「お前の詩は美しいが、何を望んでいる?」
その問いに、蘭雪は微笑を保ったまま、ゆっくりと頭を下げる。
「陛下——」
答えようとしたその瞬間、外から急報が届く。
「緊急事態でございます!」
殿中の空気が一変する。




