第百節 夜の密談
第百節 夜の密談
狩猟の宴が終わり、蘭雪は自室へ戻った。
だが、静かな夜の帳が降りる中、彼女の心は落ち着かない。
今日の出来事——狩猟場での一件に加え、慶成帝や沈逸の視線。それは明らかに、彼女をただの采女として見ていない証だった。
「後宮は戦場——誰を味方につけるかが重要だ。」
沈逸の言葉が脳裏をよぎる。
果たして彼は、ただの観察者なのか。それとも、彼女に何かを期待しているのか。
そんな思考を巡らせていたとき、静寂を破るように扉が軽く叩かれた。
「蘭雪様。」
扉の向こうから囁かれる声。
慎重に扉を開けると、そこに立っていたのは沈芷蘭だった。
物腰柔らかく微笑む彼女だが、その瞳はどこか探るような光を宿している。
「こんな夜更けに、どうされました?」
蘭雪は冷静に尋ねる。
沈芷蘭は静かに部屋へ入り、扉をそっと閉めると、少し声を潜めた。
「今日の件、御存知ですか?」
「……何のことでしょう?」
「皇帝陛下が、貴女に興味をお持ちになったことです。」
沈芷蘭は意味ありげに微笑む。
「そして、それを快く思わない方々もいる……。」
蘭雪は目を細めた。
「……貴妃様、でしょうか。」
沈芷蘭はふっと微笑を深める。
「さすがですわ。」
貴妃・葉容華は、後宮で最も権力を持つ女性のひとり。そして、彼女の派閥に属する采女たちは多い。
沈芷蘭もまた、沈貴人の意向を受けて動く立場——つまり、貴妃派の一員だった。
「……何が言いたいのです?」
蘭雪が探るように尋ねると、沈芷蘭は扇を開き、軽く揺らした。
「ただ、お伝えしておきたかったのですわ。」
「貴妃様の意向に逆らうことは、決して賢明ではありません。」
それは、警告とも取れる言葉だった。
だが蘭雪は、微笑を崩さず、静かに言葉を返す。
「ご忠告、感謝いたします。」
沈芷蘭は蘭雪の反応を探るようにしばらく沈黙した後、優雅に一礼して去っていった。
その姿が消えた後、蘭雪はそっと扇を閉じる。
——これは、単なる忠告ではない。
「試されているのね……。」
静かな夜の中、蘭雪は決意を新たにした。
次に仕掛けられる罠——それをどう乗り越えるかが、今後の後宮での生死を分けるだろう。
沈芷蘭の忠告から数日が経った。
蘭雪は沈芷蘭の言葉の裏にある意図を探るとともに、貴妃・葉容華が次に仕掛けてくる手を警戒していた。
そして——夜。
蘭雪の部屋の前に、誰かが立っていた。
「……どなた?」
扉越しに尋ねると、静かに扉が開かれた。
そこにいたのは馮蓮。貴妃に仕える采女の一人だ。
「蘭雪様、お話がございます」
彼女の表情は冷静で、感情を読ませない。
蘭雪は警戒しつつも、彼女を部屋に招いた。
「貴妃様が、貴女にお会いしたいと」
蘭雪は一瞬、心の内で笑みを浮かべた。
(ようやく来たわね)
貴妃自らが呼び出すということは、何かを仕掛けてくるつもりに違いない。
だが、これを断れば「皇帝の寵愛を鼻にかけ、貴妃に無礼を働いた」と言われるだろう。
蘭雪は静かに頷き、馮蓮と共に貴妃の元へ向かった。
◆ 貴妃の謀略 ◆
貴妃の宮殿は、艶やかな香の薫る豪奢な空間だった。
葉容華は長椅子に優雅に座り、蘭雪を迎えた。
「ようこそ、蘭雪」
優しく微笑むが、その目の奥には冷たい光が宿っている。
「貴妃様、お呼びいただき光栄です」
蘭雪は慎重に礼を取る。
貴妃は盃を持ち上げ、微笑みながら言った。
「私、貴女ともっと親しくなりたくて」
そして、馮蓮が蘭雪の前に酒盃を差し出す。
「お酒を一杯、どうかしら?」
——毒かもしれない。
そう直感しながらも、蘭雪は微笑んだまま盃を受け取る。
「光栄でございます」
だが——その瞬間、沈逸の声が響いた。
「少し、お待ちを」
部屋の外から現れたのは、沈逸。
優雅に扇を開きながら、冷静な表情で歩み寄る。
「夜更けの酒席は、あまり健康にはよろしくないかと」
貴妃の表情がわずかに険しくなる。
沈逸は蘭雪をちらりと見つめ、穏やかに微笑んだ。
沈逸の言葉が響いた瞬間、宴席に微かな緊張が走った。
貴妃・葉容華は盃を持つ指をわずかに強く握りながら、沈逸を見つめる。
「まぁ、沈大人。」
微笑を崩さず、彼女は穏やかに言った。
「これはただの親睦のための一杯。私、蘭雪ともう少し親しくなりたくて。」
沈逸は扇をゆるりと揺らしながら、静かに蘭雪の隣に歩み寄る。
その仕草は優雅でありながら、どこか冷ややかな威圧感をも伴っていた。
「それは光栄なことでございます、貴妃様。」
沈逸の声音は柔らかいが、その瞳には冷静な鋭さが宿っていた。
「しかし——後宮では、酒の盃を交わすにも慎重さが求められるもの。」
彼はふと扇を閉じ、蘭雪の持つ盃に視線を落とす。
「……もし、蘭雪様の健康を害するようなことがあれば、それは陛下にとっても由々しき問題となるでしょう。」
貴妃は沈逸の言葉を受けて、穏やかに微笑みながらも、その瞳には冷たい光が宿った。
「沈大人は、まるで私が何かを企んでいるようにおっしゃるのね。」
「まさか。そのようなことは微塵も。」
沈逸はさらりと受け流しながら、蘭雪に目を向けた。
「しかし、夜も更けております。これ以上の酒席は、お身体に障りますゆえ。」
そう言いながら、沈逸は蘭雪の持つ盃をそっと取る。
「この一杯、私が頂くのもよろしいでしょうか?」
その瞬間、貴妃の目が鋭く細められた。
馮蓮が沈逸の言葉に動揺したように視線を揺らす。
だが、貴妃はすぐに微笑みを取り戻し、しなやかに手を振った。
「まぁ、それほどに警戒なさるのなら、無理に飲む必要はありませんわ。」
彼女は盃を沈逸の手からそっと取り戻すと、馮蓮に渡した。
「余ったお酒は下げなさい。」
馮蓮は小さく頷きながら、盃を慎重に受け取り、席を辞した。
沈逸はそれを見送りながら、扇を開く。
「ご配慮、痛み入ります。」
貴妃はゆっくりと沈逸を見つめ、微笑を浮かべたまま言った。
「貴方がこうして蘭雪のために動くとは、少し意外ですわ。」
沈逸は扇を軽く揺らしながら、穏やかに答えた。
「ただ、陛下の信頼を受ける者として、後宮の秩序を守るだけのこと。」
「……そう。」
貴妃は意味ありげに沈逸を見つめた後、ゆっくりと立ち上がった。
「今宵はここまでにいたしましょう。」
蘭雪は沈逸の後ろで静かに佇みながら、貴妃の動きを見つめていた。
——今のやりとりで、貴妃の本心が見えた。
彼女は確かに、自分を試そうとしていた。
毒を盛ったかどうかは分からない。
だが、沈逸が現れなければ、貴妃の思惑通りに物事が進んでいた可能性が高い。
蘭雪は目を伏せ、沈逸の存在の大きさを改めて感じた。
彼は、確かに自分を守るために動いた。
宴席が解散する中、沈逸が静かに蘭雪に囁く。
「……気をつけることです。」
蘭雪は彼を見上げ、そっと微笑んだ。
「……助けてくださって、ありがとうございます。」
沈逸は何も答えず、ただ静かに扇を揺らす。
その背には、夜風が冷たく吹いていた。
——こうして、貴妃の仕掛けた罠は未遂に終わった。




