第九十九節 春の狩猟の宴
第九十九節 春の狩猟の宴
蘭雪は、采女たちをそれぞれ観察しながら、狩猟の宴が進む様子を静かに見つめていた。皇帝が弓を引くたび、観衆の歓声が上がる。沈逸はそんな光景を一歩引いた位置から眺め、扇を軽く振りながら微笑を浮かべていた。
狩猟が進むにつれ、貴妃の取り巻きである采女たちが、何やら密かに言葉を交わしている様子が目に入った。蘭雪はそれとなく耳を澄ませ、気配を探る。
「…皇帝陛下の前で失態を犯せば、それで終わりよ。」
「ええ、貴妃様が仰るには——」
どうやら、狩猟の最中に何か仕掛けるつもりらしい。蘭雪は目を細め、周囲の動向をさらに注意深く観察する。
突如、遠くで馬が嘶く声が響き渡った。次の瞬間、若い貴族の姫が悲鳴を上げながら、暴れ馬に振り回されていた。手綱を握ることもできず、完全に制御を失っている。
「危ない!」
周囲が騒然となる中、その姫の馬はちょうど蘭雪の近くを駆け抜けようとしていた。采女たちの多くが動揺し、後ずさる中、蘭雪は素早く判断した。
「紅梅!」
「承知!」
李紅梅は即座に動き、馬の進路を予測しながら身構える。その間に、蘭雪は沈逸の方を振り返った。沈逸もすでに状況を把握しており、冷静に扇を閉じると、馬の進行方向に向けて低く声を発した。
「慶成帝が動く。」
その言葉の通り、皇帝がすでに馬を駆り出していた。矢のような速さで暴れ馬を追い、巧みに手綱を引きながら、その貴族の姫を救おうとしている。だが、馬の動きが荒すぎる。
蘭雪はすかさず、周囲の兵に向かって声を上げた。
「馬を囲め!左右から進路を塞げば、減速するはず!」
その言葉に、采女たちも動き出した。李紅梅が先頭に立ち、数名の護衛とともに馬の横へと駆ける。馮蓮と霍玲瓏は素早く周囲を見渡し、必要な指示を飛ばす。
「そちらの弓兵!矢を構え、必要なら脚を狙って!」
「医療班を呼んでください!」
一方で、王茜は事態に気圧されたように動けずにいたが、それを見た沈芷蘭がそっと袖を引いた。
「何もしなければ、後でどう言われるかわかりませんよ。」
「……!」
王茜は唇を噛みしめると、意を決して駆け出し、負傷者の手当てに向かう。
皇帝の決断と采女たちの評価
最終的に、慶成帝が見事に馬の動きを封じ、貴族の姫を助け出した。姫は軽傷で済んだが、狩猟の宴は一時中断となる。
皇帝はゆっくりと馬を降り、采女たちを見渡した。
「……見事な連携だった。」
その言葉に、采女たちは一様に表情を引き締める。慶成帝は特に、蘭雪をじっと見つめた。
「お前が指示を出したのか?」
「陛下のご決断があってこそ、采女たちも動くことができました。」
蘭雪はあくまで謙虚に答える。しかし、その様子を見ていた沈逸が、扇を軽く動かしながら微笑む。
「ふむ、采女たちを束ねる才覚がおありのようですね。」
その言葉に、慶成帝の黒曜石の瞳がほんのわずかに細められた。
慶成帝の「なるほど」という一言が、静かに場に響いた。
采女たちは緊張した面持ちで、皇帝の言葉を待っている。蘭雪もまた、表面上は落ち着いた様子を保ちながら、内心でこの場の状況を冷静に整理していた。
慶成帝の黒曜石の瞳が彼女を捉えたまま、沈逸が扇を軽く振る。
「蘭雪様が瞬時に采女たちを指揮し、事態を収めたのは見事でした。これは単なる偶然ではないでしょう。」
皇帝の側近であり、侍講でもある沈逸の言葉に、周囲の者たちはざわめいた。
「確かに……采女の中でも、このような判断力を持つ者は滅多におりません。」
「もしかして、ただの学問好きではないのでは?」
それぞれの思惑を秘めた視線が、蘭雪に向けられる。
だが、蘭雪は動じることなく、微かに微笑を浮かべた。
「身に余るお言葉です。皆がそれぞれの役割を果たしたからこそ、無事に事態を収められたのでしょう。」
その控えめながらも的確な返答に、慶成帝は一瞬、口角をわずかに上げたように見えた。
「ふむ。」
それ以上は何も言わず、皇帝は采女たちに目を向けた。
「今日の出来事で、それぞれの振る舞いがよく分かった。狩猟の宴はこのまま続ける」
短い言葉ではあったが、それがこの場での評価を意味することは明白だった。
采女たちは改めて整列し、それぞれが自分の立場を意識する。
この場で最も注目を集めたのは、間違いなく蘭雪だった。
宴の休憩時間、蘭雪は人目を避けるようにしながら、湖畔の近くへと歩を進めた。
ひとり静かに物思いに耽ろうとした矢先、ふと気配を感じる。
「貴女は、予想以上に面白い。」
振り向けば、沈逸がそこにいた。
相変わらず端正な顔立ちに微かな微笑を湛え、手にした扇を軽く揺らしている。
「……私の何が、そんなに面白いのです?」
蘭雪は慎重に問い返す。
沈逸は扇を閉じ、彼女の目をじっと見つめた。
「聡明で、観察力が鋭く、采女でありながら一歩引いて全体を見ている。何より、陛下の前で動じることなく、堂々としていた」
「……そう見えましたか?」
「ええ。狩猟の宴での一件、貴女の行動は計算されたものだった」
沈逸の言葉に、蘭雪は微かに目を細めた。
この男は、私の本質に気づき始めている——。
「計算など、しておりませんわ」
「ふふ、それならなおさら興味深い。」
沈逸は扇を開き、ゆるりと風を仰ぐ。
「私は、陛下の側近として、優れた者には関心を持つ。貴女は、後宮の采女でありながら、ただの飾りで終わるつもりはないのでしょう?」
蘭雪は沈逸の言葉を受け止めながら、慎重に答えた。
「……私のような者が、後宮で生き残るには、知恵が必要ですから」
「なるほど、実に正直だ」
沈逸は微笑しながら、さらに一歩、彼女へと近づいた。
「後宮は戦場。そして戦場では、誰を味方につけるかが重要だ。貴女は、まだそれを決めてはいない。」
「……誰を味方につけるべきだと思います?」
沈逸は一瞬、思案するように目を伏せ、再び蘭雪を見つめた。
「それは、貴女次第だ」
沈逸はそう言い残し、再び扇を軽く振ると、湖畔を後にした。
蘭雪はその背中を見送りながら、胸の奥で静かに思考を巡らせる。
——沈逸。彼は敵か、味方か。
答えを出すには、まだ少し時間が必要だった。




