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第九十八節 花刺繍の主

 第九十八節 花刺繍の主


 蘭雪は、柳清から得た情報を整理しながら、沈貴人の宮へと戻った。


 皇后、葉貴妃、麗妃——この三人の誰かが、沈貴人に何かを伝えようとしていたのか?


 もしそうなら、なぜ直接ではなく、匿名の女官を使ったのか。


 沈貴人の居室に入ると、彼女は落ち着かない様子で蘭雪の帰りを待っていた。


「蘭雪、何か分かった?」


 蘭雪は静かに頷いた。


「貴人さまに接触した女官は、正式な宮中の記録に存在しませんでした」


「……どういうこと?」


「つまり、誰かが意図的に紛れ込ませた可能性が高いということです。そして、その女官の裾の花模様の刺繍——それを許されているのは、皇后陛下、葉貴妃、麗妃の三名のみ」


 沈貴人の表情が強張る。


「そんな……まさか、三人のうちの誰かが?」


「断定はできません。ただし、その中の一人が ‘関わっている可能性がある’ ことは確かです」


 沈貴人は唇をかみしめ、少し考え込んだ後、そっと蘭雪を見つめた。


「……私、皇后さまと葉貴妃さまには直接何の関わりもないわ。特に葉貴妃さまは、私に興味を示したことすらないはず……。でも、麗妃さまは……」


 沈貴人の瞳に、不安の色が浮かぶ。


「麗妃さまが、以前に私に声をかけてくださったことがあるの」


 蘭雪はすぐに反応した。


「どのような会話を?」


「ええ……それほど特別な話ではなかったの。でも……どこか遠回しに、私の立場を心配しているような言い方だったわ」


 麗妃・宋柔。


 皇帝の寵愛を失い、現在は静かに暮らしていると言われているが、決して無力な存在ではない。


 沈貴人に対して何かを伝えようとしていたのだとしたら——彼女は何を知っているのか。


 蘭雪はゆっくりと口を開いた。


「……麗妃さまに、一度お話を伺ってみる価値がありそうですね」


 沈貴人は戸惑いながらも、小さく頷いた。


「でも……私が直接伺うのは危険かしら?」


「ええ、貴人さまが動けば、敵に悟られる恐れがあります。まずは私が探りを入れてみます」


 蘭雪はそう言って、席を立った。


 沈貴人を狙った矢の真相に近づくために——麗妃の元へ向かう。



 蘭雪は、沈貴人の宮を出ると、すぐに麗妃・宋柔の居所である「静蘭宮」へ向かった。


 麗妃はすでに皇帝の寵愛を失って久しく、表立って政治に関与することもない。しかし、彼女はもともと名門の出身であり、後宮の裏の動きをよく知る存在だと噂されていた。


 ——なぜ、沈貴人に何かを伝えようとしたのか?


 その答えを得るため、蘭雪は静かに足を進めた。


 ◇◇◇


 静蘭宮に着くと、門前に控えていた女官が蘭雪の姿を認め、すぐに奥へと報せに行った。


 しばらくして、年配の侍女が現れ、静かに頭を下げた。


「麗妃さまがお待ちです。どうぞ中へ」


 蘭雪はその言葉に頷き、静蘭宮の奥へと足を踏み入れた。


 庭には蘭の花が静かに揺れ、穏やかな香りが漂っていた。しかし、どこか寂しげな雰囲気があるのは、この宮がすでに権力の中心から外れて久しいことを物語っている。


 やがて、麗妃の居室に通された蘭雪は、そこに端然と座る宋柔の姿を目にした。


 黒髪を端正に結い上げ、淡い紫の衣を纏った姿は、寵愛を失ってもなお気品を保っていた。


「蘭雪と申します。突然の訪問、失礼いたします」


 蘭雪が慎重に頭を下げると、麗妃は微笑みながら手を上げた。


「構わないわ。あなたの名は、前から聞いていたの。——皇后さまのお側に仕えながら、沈貴人を助けているとか」


 蘭雪は動じることなく、穏やかに答えた。


「恐れながら、私はただ沈貴人さまのお力になりたく……」


「ええ、分かっているわ」


 麗妃はふっと微笑み、蘭雪を見つめた。


「それで……今日は何を聞きに来たのかしら?」


 蘭雪は慎重に言葉を選びながら、本題に入った。


「数日前、沈貴人さまに近づいた女官についてお尋ねしたいのです。その女官の衣には、花の刺繍が施されていたと伺いました」


 その瞬間、麗妃の微笑みがわずかに消えた。


 蘭雪はその変化を見逃さなかった。


「私の宮の女官かどうかを確かめに来た、ということかしら?」


「いえ、確証はありません。ただ、麗妃さまが以前、沈貴人さまにお声をかけられたと伺い……もしや何かご存じではないかと」


 麗妃はゆっくりと茶を取り、静かに口をつけた。


 そして、しばらく沈黙した後、低い声で言った。


「……蘭雪、あなたは賢い子ね。でも、あまり深入りしないほうがいいわ」


 蘭雪は目を細めた。


「それは、何かを知っていらっしゃるということでしょうか?」


 麗妃は軽くため息をつき、扇をゆっくりと閉じた。


「この後宮で生き残るためには、時に見て見ぬふりをすることも必要なのよ」


 その言葉は、まるで警告のようだった。


 蘭雪は、麗妃が何かを隠していることを確信した。


 沈貴人に伝えようとした情報は何だったのか。そして、なぜ麗妃はそれを話せないのか——。


「……お言葉、肝に銘じます」


 そう答えながらも、蘭雪の心は決して諦めてはいなかった。


 麗妃が沈黙するということは、それほど危険な何かがこの宮廷の奥で渦巻いているということ。


 蘭雪は慎重に言葉を選びながら、最後に一つだけ問いを投げかけた。


「では……一つだけお聞かせください。その女官は、今もご無事なのでしょうか?」


 麗妃の指が、扇を握る力をわずかに強めた。


 そして——


「……もう、遅いわ」


 その一言が、静蘭宮の空気を凍らせた。


 沈貴人に伝えようとした女官は、すでに消されている——。


 蘭雪は静かに目を伏せ、深く一礼した。


「ご回答、感謝いたします」


 麗妃は何も言わず、ただ扇を静かに開いた。


 蘭雪は静蘭宮を後にしながら、確信した。


 沈貴人を狙った事件の裏には、まだ明かされていない大きな陰謀が隠されている。


 そして、その真実に近づくほど、危険は増していく——。


 蘭雪は、次の手を考え始めた。


 

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