第九十七節 皇后の詰問
第九十七節 皇后の詰問
蘭雪と沈貴人は、女官に先導されながら皇后の帳殿へと向かった。春の狩猟の宴の余韻がまだ残る中、皇后がわざわざこの場で呼び出すということは——何か意図がある。
沈貴人は不安を隠しきれず、蘭雪の袖をそっと握った。
「蘭雪……皇后さまは、何をお考えなのかしら」
彼女の声はかすかに震えていた。
蘭雪は沈貴人を安心させるように微笑み、静かに囁いた。
「どんなお言葉をいただくにせよ、決して慌てず、冷静に対応することが大切です」
沈貴人は小さく頷き、深呼吸をして気を落ち着ける。
帳殿の扉が静かに開かれた。
中に入ると、皇后・沈麗華が玉座に座し、琥珀色の茶をゆっくりと口に運んでいた。その端然たる姿は、まさに后の威厳を象徴するものだった。
側には、采女筆頭の柳清が控えており、蘭雪たちが入るのを見届けると、すっと皇后の隣に下がった。
「沈貴人、蘭雪——お待ちしていました」
皇后は穏やかに微笑みながらも、その眼差しには鋭い光が宿っていた。
蘭雪は慎重に膝を折り、沈貴人とともに恭しく拝礼した。
「このような場を賜り、恐悦至極にございます」
「うむ。座るがよい」
二人が席に着くと、皇后は静かに茶を置き、ふと沈貴人を見つめた。
「春の狩猟——大変なことがあったようですね」
沈貴人は息をのんだが、すぐにうなずいた。
「はい……突然の出来事で、未だに動揺が収まりません」
「それはそうでしょうね」
皇后はゆっくりと扇を広げ、その視線を蘭雪へと向ける。
「——蘭雪、お前の見解を聞かせなさい」
蘭雪は一瞬考え、慎重に言葉を選んだ。
「矢が放たれたのは、偶然ではなく、何者かの意図が働いているように思われます。ですが、それが沈貴人さまを害する目的だったのか、あるいは別の狙いがあったのか——まだ確証はございません」
皇后は扇を閉じ、少し顎を上げる。
「ふむ……つまり、“誰かが沈貴人を狙った可能性がある” ということね?」
「はい」
皇后の瞳がわずかに細まった。
「そうだとすれば、沈貴人——お前、何か心当たりは?」
沈貴人は、皇后の静かながらも鋭い問いかけに戸惑いながらも、蘭雪と沈逸からの助言を思い出し、意を決して答えた。
「実は……数日前、見知らぬ女官が私に書状を渡そうとしました。しかし、不審に思い、受け取らずに追い返しました」
皇后の表情は変わらなかったが、柳清がわずかに眉をひそめた。
「その書状の内容を確かめましたか?」
「いえ……」
皇后は沈黙したまま、しばらく沈貴人を見つめていた。その静寂が、かえって場の空気を張り詰めたものにする。
やがて、皇后は静かに扇を畳み、淡々と言った。
「その書状を持ってきた女官を探しなさい」
沈貴人は驚いたように目を見開いた。
「……皇后さま?」
「これはただの ‘偶然’ ではないでしょう」
皇后の声音には確信があった。
「誰かが沈貴人に ‘何かを伝えようとした’ のは確かです。それを阻止するために、今回の件が起きた可能性がある。ならば、まずはその書状を持ってきた者を突き止めるのが先決」
蘭雪は感心しながらも、その冷静な分析力に改めて畏敬の念を抱いた。
「……承知いたしました。私も協力いたします」
皇后はゆっくりと頷き、視線を沈貴人に戻した。
「沈貴人、お前はこの後も慎重に振る舞いなさい。誰が味方で、誰が敵か——まだ分からぬのだから」
「……はい」
沈貴人はかすかな緊張をにじませながらも、しっかりと頷いた。
誰かが沈貴人を狙っている——。その真相を探るため、蘭雪は動き出すことを決意した。
皇后の命を受け、蘭雪と沈貴人は帳殿を辞し、すぐに行動を開始した。
「書状を持ってきた女官の姿は、はっきり覚えていますか?」
蘭雪の問いに、沈貴人は少し考え込んだ。
「ええ……確かに覚えています。顔立ちはそれほど特徴的ではなかったけれど、衣の裾に刺繍が入っていたのが印象に残っています」
「刺繍?」
「ええ……ごく細やかな花模様が、裾の端に施されていました」
蘭雪は眉をひそめた。女官の制服は、地位によって細かく規定されており、個人の意匠を加えることは通常許されていない。もし刺繍が入っていたなら、その女官は特定の主に仕えている可能性が高い。
「その女官は、どこで貴人さまに接触しましたか?」
「私の宮の廊下で……でも、初めて見る顔でした。名を聞く前に逃げられてしまって……」
沈貴人の表情に不安が浮かぶ。
蘭雪は深く頷き、女官たちの管理を担う采女筆頭の柳清に話を聞くことを決めた。彼女なら、宮中の女官たちの出入りを把握しているはずだ。
◇◇◇
翌日、蘭雪は柳清を訪ね、帳簿を見せてもらった。
「……書状を持ってきた女官について調べたいと?」
柳清は端然とした態度を崩さぬまま、蘭雪をじっと見つめた。
「ええ。沈貴人さまに近づいた者の正体が分かれば、狙われた理由も見えてくるかもしれません」
柳清は少し考えた後、書架から宮中の女官名簿を取り出した。
「裾に刺繍がある女官といえば、高位の妃に仕える者か、あるいは特別な許可を得た者でしょう。少しお待ちなさい」
彼女は帳簿をめくり、注意深く目を走らせた。しかし、やがて眉をひそめる。
「……奇妙ね」
「何か?」
「沈貴人の宮に仕える女官の中に、それに該当する者はいません。さらに、この数日間で ‘新たに配属された’ 女官の記録もないわ」
蘭雪の表情が険しくなる。
「つまり、その女官は ‘正式に存在しない’ ということですね」
柳清は静かに頷いた。
「ええ。もし女官の名簿に載っていないのなら、誰かが意図的に紛れ込ませたか、もしくはすでに消されたか……」
「消された……」
その言葉が、重く響いた。
宮中では、口封じのために人を ‘消す’ ことが決して珍しくない。もしこの女官が何らかの重要な情報を握っていたとすれば——彼女はすでに……。
蘭雪は拳を握りしめた。
その女官が何を伝えようとしていたのか。沈貴人を狙った者の正体は何なのか。全ては霧の中にあった。
「もう一つ、確認したいことがあります」
蘭雪は柳清を見つめ、ゆっくりと口を開いた。
「宮中で ‘花模様の刺繍’ を許されている妃嬪の一覧を教えていただけますか?」
柳清は少し驚いたように蘭雪を見たが、やがて微かに笑みを浮かべた。
「……なるほど。あなた、なかなか興味深い着眼点を持っているわね」
そう言って、再び帳簿を開く。
「花の刺繍を許されているのは、現在の后妃の中で三名……皇后陛下、貴妃・葉容華、そして麗妃・宋柔」
蘭雪は、その名を頭に刻み込んだ。
この三人のうち、誰かが関与しているのか——。それとも、まったく別の勢力が暗躍しているのか。
沈貴人を狙った真相を探るべく、蘭雪の調査は続く——。




