第七節 沈貴人の決断
第七節 沈貴人の決断
翡翠殿の庭に、冷たい風が吹き抜けた。
蘭雪は廊下に立ち、静かに月を見上げる。
春燕が持ち帰った情報は、彼女の推測を裏付けるものだった。
魏尚は沈貴人のもとにも使いを送り、何らかの提案をしていた という。
(沈貴人は、それをどう受け止めたのかしら……)
もし沈貴人が魏尚と手を組めば、事態は複雑になる。
だが、彼女が拒めば——魏尚は容赦なく沈貴人を切り捨てるだろう。
(沈貴人は、自分の立場をどう守るつもりなのか……)
その時、門の向こうから足音が聞こえた。
「蘭雪様、沈貴人様がいらっしゃいました」
春燕の声が響く。
蘭雪は微笑み、ゆっくりと振り返った。
沈貴人は、夜の闇を背に静かに立っていた。
「お待ちしておりました」
「……少し、話をしたいの」
沈貴人の声は落ち着いていたが、どこか張り詰めたものを感じる。
蘭雪は彼女を室内へと案内し、静かに扉を閉めた。
二人きりになると、沈貴人はゆっくりと息をつき、低く囁いた。
「……魏尚が、私に手を組まないかと持ちかけてきたわ」
「やはり」
蘭雪は表情を崩さなかった。
沈貴人は苦笑しながら、細い指で茶碗の縁をなぞる。
「私が皇帝から賜ったという玉玲瓏の噂——最初に広めたのは張美人の侍女ですってね」
「……それをどこまでご存じなのですか?」
沈貴人はわずかに目を細めた。
「魏尚は私にこう言ったわ」
『沈貴人、あなたが今の立場を守りたいのなら、張美人を支持しなさい』
「……張美人を、支持?」
「ええ。そうすれば、沈貴人としての立場は保たれると」
沈貴人は自嘲気味に笑う。
「つまり、『次に皇帝の寵を得るのは張美人だから、それに逆らわず従え』ということね」
蘭雪は目を伏せた。
(魏尚は、沈貴人を取り込むことで、後宮の勢力を固めるつもり……)
「——それで、どうされるおつもりですか?」
沈貴人はふっと笑みを浮かべた。
「私は、魏尚にはつかないわ」
蘭雪は沈貴人を見つめた。
彼女の目には、確固たる意思が宿っている。
「たとえ寵愛が薄れたとしても、私は誰かの言いなりにはならない。ましてや、魏尚の操り人形など」
(……沈貴人は、戦う覚悟を決めた)
「……ならば、私にできることはありますか?」
沈貴人は微笑み、そっと蘭雪の手に触れた。
「あなたの知恵を貸してほしいわ、蘭雪」
「……心得ました」
二人の視線が交差する。
後宮の嵐は、さらに激しさを増していく——。
***
沈貴人が魏尚の申し出を拒んでから数日が経った。
蘭雪は沈貴人の宮を訪れるたびに、張美人の勢いが増しているのを感じた。
(やはり、魏尚は張美人を表舞台に押し上げるつもり……)
彼が沈貴人を見限った以上、次に動くのは——沈貴人を後宮から排除すること。
それを防ぐには、魏尚の次の一手を読むしかない。
そんな中、翡翠殿に急報が届いた。
「蘭雪様、大変です!」
春燕が駆け込んできた。
「張美人が、沈貴人の宮で見つかった薬草のことを皇后様に報告しました!」
蘭雪の瞳が冷たく光る。
(……魏尚が動いた)
数日前、沈貴人の宮で薬草が見つかったとのうわさが流れた。
事の真偽は不明。
しかし、それを魏尚が利用した。
(魏尚は、張美人を通じて皇后に報告させた……つまり、これはただの通報ではない)
「皇后様は、どのように?」
春燕は息を整えながら答えた。
「すぐに沈貴人を召し出し、説明を求めるとのことです」
蘭雪は静かに扇を開いた。
(魏尚の狙いは二つ)
(沈貴人を皇后の怒りに晒し、失脚させること)
(そして、その席を張美人に与えること——)
「……春燕、沈貴人様のもとへ行きましょう」
「はい!」
***
沈貴人の宮には、すでに宮女たちの不安げな囁きが広がっていた。
「蘭雪!」
沈貴人が奥の間から姿を現した。
彼女はすでに覚悟を決めた表情だった。
「皇后様に呼ばれたわ。すぐに向かわなければ」
蘭雪は頷き、そっと沈貴人の手を握った。
「——負けないでください」
沈貴人は微笑んだ。
「ええ、私は沈貴人として、最後まで戦うわ」
沈貴人の宮を後にし、彼女は皇后のもとへ向かった。
蘭雪は立ち尽くし、静かに扇を閉じた。
(ここからが、本当の勝負——)
***
皇后の宮である慈寧宮は、沈黙と緊張に包まれていた。
沈貴人が宮中の使いに連れられ、皇后の前に跪いたとき、周囲の視線が彼女に突き刺さるのを感じた。
沈貴人の目の前には、威厳に満ちた皇后が座している。
その傍らには、得意げな表情の張美人。
(やはり、魏尚は張美人を動かしたのね……)
沈貴人は冷静に周囲を観察しながら、皇后の言葉を待った。
「沈貴人——」
皇后の声が響く。
「お前の宮で禁制の薬草 が見つかったと聞きました」
重々しい口調に、女官たちは息を呑む。
「……申し開きはありますか?」
沈貴人はゆっくりと顔を上げた。
(ここで下手に弁明すれば、余計に怪しまれる)
(しかし、無実を証明しなければならない)
沈貴人は、静かに口を開いた。
「皇后様、私には何の関与もございません」
皇后は微かに眉を寄せた。
「では、その薬草はどうしてお前の宮で見つかったのです?」
「……私にも分かりません。ただ、この件については私自身も深く調べたいと考えております」
張美人が小さく笑った。
「まあ、沈貴人は本当に潔白なのでしょうか? 後宮において、不審な動きをする者は少なくありませんわ」
その言葉に、沈貴人は冷ややかに微笑んだ。
「それを言うなら、張美人——私の宮で何が見つかったのか、ご存知なのですか?」
張美人の顔が強張る。
皇后がゆっくりと視線を向けた。
「張美人、あなたはこの件についてどこまで知っていますか?」
張美人は、ちらりと魏尚の方を見た。
(……魏尚の指示通りに動いているのね)
沈貴人はその様子を見逃さなかった。
(ならば、逆に利用させてもらう)
「皇后様——」
沈貴人は、毅然とした声で続けた。
「この薬草が私の宮で見つかったのは、つい最近のこと。しかし、この薬草は宮廷内のある場所に以前から存在していた と聞き及んでおります」
皇后の目が細められた。
「その場所とは?」
沈貴人は張美人を見つめた。
「——張美人の宮です」
周囲がざわめいた。
「何ですって?」
張美人が慌てて反論しようとするが、沈貴人は冷静に続けた。
「私の宮で見つかった薬草は、張美人の宮と同じもの だったと報告を受けております」
皇后が張美人に視線を向ける。
「張美人、これは本当ですか?」
張美人の顔が青ざめた。
魏尚は、静かに目を伏せていた——彼への介入を許さないかのように。
(これで、簡単には私を罪に問えないはず)
沈貴人は静かに扇を閉じた。
「皇后様、どうか公正なるご判断を」
皇后は沈黙し、厳しい表情で全員を見渡した。
「この件、慎重に調べる必要があります」
その言葉に、張美人は硬直し、魏尚は目を細めた。
沈貴人は静かに頭を下げた。




