第一章 後宮の罠と試練 序章 運命の扉
第一章 後宮の罠と試練 序章 運命の扉
天瑞王朝第七代皇帝・慶成帝が即位して五年。
その治世は安定しているように見えたが、宮廷の内側では権力争いの火種が燻っていた。
ことに後宮は、皇帝の寵愛を巡る妃嬪たちの策略と陰謀が渦巻く戦場であった。
天瑞王朝の皇都・長安——それは帝国の心臓とも言うべき都であり、壮麗なる宮廷と繁栄する市街を擁する天下随一の都市である。
東西に広がる大通りには、行き交う馬車や肩を並べる商人たちの活気が満ち、香ばしい焼き餅や薬草の匂いが風に乗って漂っていた。人々はそれぞれの営みに精を出し、貴族の馬車が通れば道を譲り、市井の子どもたちは路地裏で無邪気に駆け回る。
しかし、この華やぎの中にあっても、決して見過ごせぬ陰がある。皇都の一角、ひっそりとした裏路地の奥には、時の流れから取り残されたような一軒の小さな家があった。
「お母様……私は、行ってまいります」
夕暮れの光が傾き、室内を淡い朱に染めていた。
古びた木の扉の前に立つ少女——蘭雪は、母の手をそっと握りしめながら、静かに語りかけた。
彼女の家は、かつて学識ある士人の家系だった。しかし、冤罪によって父は処刑され、一族は没落。母とともに細々とした暮らしを強いられてきた。
それでも蘭雪は幼い頃から詩文や書道を学び、決して知性を捨てることはなかった。そして、その才を見込まれ、才女選抜の一人として後宮へと召し上げられたのだ。
「蘭雪……」
母の沈んだ声が胸に響く。その手はひどく細く、温かいがどこか儚げだった。
「必ず生き抜いて、決して無理をしないでおくれ……」
「……はい」
蘭雪はそっと微笑み、母の手を握る力をわずかに強めた。
その時、家の外から控えめな声が聞こえた。
「蘭雪ちゃん、本当に行くのね……」
隣家の女主人・趙氏が、気遣わしげに立っていた。彼女は蘭雪の母と長年助け合いながら暮らしてきた人で、蘭雪にとっても幼い頃から世話になった存在だった。
「ええ、おばさま。後宮に行けば、私も母上ももう少し楽に暮らせるかもしれません」
「……でも、あの場所は——」
趙氏の表情に影が落ちる。後宮とは、華やかに見えても恐ろしい陰謀の渦巻く場所。それを誰よりも知っているのは、庶民として皇宮を遠くから見つめ続けてきた彼女たちかもしれない。
「心配してくださってありがとうございます。でも、私は——」
蘭雪は背筋を伸ばし、きっぱりと告げた。
「どんなに過酷な場所であろうと、生き抜いてみせます」
その瞳には、確かな決意が宿っていた。
家の前には、すでに宮廷からの馬車が待っていた。装飾は控えめだが、その荘厳な雰囲気は、これがただの旅立ちではないことを物語っている。
蘭雪は最後にもう一度、母を振り返った。
「行ってまいります」
母はただ、涙をこらえながら頷いた。
蘭雪は、門の外へと足を踏み出した。
馬車に乗り込むと、車輪が音を立てて動き出す。
夕陽の光が皇都の空に燃え広がり、遠ざかる家々を紅く染め上げていた。
こうして、一人の少女の戦いが始まった。
運命の扉は、今、音を立てて開かれる。
第一章 後宮の罠と試練
第一節 王宮の門をくぐる時
宮門をくぐった瞬間、蘭雪は思わず息をのんだ。
目の前には、天を突くほどの壮麗な建築が広がっていた。
朱塗りの柱が連なる回廊、その天井には鳳凰の刺繍が施された絢爛な帳が垂れ下がっている。
沈香の甘やかな香りが空気を満たし、白磁の香炉から立ち上る煙がゆらめいていた。
まるで夢のように美しい世界——
しかし、その静寂の奥に潜むのは、優美な笑顔の裏に隠された無数の棘。
耳をすませば、女官たちが囁き交わしているのがわかった。
「あれが新入りの才女?」
「才があれど、ここで生き残れるかしら」
慎ましく頭を下げながらも、蘭雪はその言葉のひとつひとつを聞き逃さなかった。
後宮は美しい牢獄——生き残るためには、決してただの飾りではいられない。
そんな中、突然、鋭い声が耳を打った。
「あなたが新入りの才女ね」
声の主は、貴妃・葉容華の侍女だった。
白磁のような肌、形の整った唇、凛とした目元。
しかし、その美しさの奥には、冷たい侮りの色が見える。
「私は蘭雪と申します。よろしくお願いいたします」
蘭雪は静かに微笑みながら、慎み深く一礼する。
侍女は鼻で笑った。
「貴妃様は、才のある方を好まれるのですわ。とくに——御しやすければ」
侮蔑と試すような響き。
蘭雪は、相手の意図を即座に理解した。
これは試されているのだ。
才女として後宮に入った以上、誰かに警戒されるのは当然のこと。
それに、葉容華は後宮で絶対的な影響力を持つ妃。
彼女の侍女が自ら言葉を投げかけてくるということは、すでに何らかの意図が動いている証拠だった。
「お覚悟なさい。ここは、美しさだけでは生きていけぬ場所ですわ」
侍女は意味ありげな微笑を残し、回廊の奥へと消えていった。
蘭雪は目を伏せ、静かに息を整えた。
——望むところです。
第二節 詩文の競い合い
後宮に入って数日後、蘭雪は早速、最初の試練に直面した。
それは、皇帝の前で行われる「詩文の競い合い」だった。
宦官長・**魏尚**が、冷ややかな笑みを浮かべる。
「才女として入宮したのなら、その才を示せねばなりません」
魏尚の目は、まるで鋭い刀のように蘭雪を見据えていた。
彼は後宮の影の実力者であり、皇帝すら一目置く存在。
「もし、この場でつまらぬ詩を詠めば……今後の待遇が変わるやもしれませんな」
その言葉に、他の妃嬪たちがくすくすと笑う。
蘭雪は微かに唇を引き結び、筆を取った。
慎重に、しかし迷いなく筆を運ぶ。
「落葉は風に舞い 天を目指す
けれど天に届かぬとも
なおも枝に縋らぬ気高き志よ」
——沈黙が降りた。
一瞬、まるで時間が止まったかのような静寂が広がる。
誰もが、その詩の意味を咀嚼しようとしていた。
そして、ひとりの妃が小さく笑う。
「なにやら悲壮な詩ですこと」
魏尚の表情は読めない。
ただ、彼の手がわずかに動いたのを、蘭雪は見逃さなかった。
その沈黙を破ったのは——
「見事な詩だ」
その声は、まるで雷鳴のように響いた。
いつの間にか、皇帝・慶成帝が席に座っていた。
蘭雪の心臓が、一度だけ強く跳ねる。
だが、表情には出さず、深々と頭を下げた。
「お主、名をなんと言う?」
その問いに、蘭雪は静かに答えた。
「蘭雪と申します」
「蘭雪か……」
慶成帝は微かに唇を吊り上げる。
「風に舞う落葉が、何を目指すのか——見届けるのも一興だな」
その言葉には、まるで試すような響きがあった。
周囲の妃嬪たちの間に、ざわめきが走る。
皇帝の興味を引いた——
それは、この後宮において最大の好機であり、同時に最も危険な瞬間だった。
蘭雪は静かに目を閉じる。
後宮の戦いは、まだ始まったばかりだった。