7 下なんて向いていたら
佐久夜は察した。今、自分の首を絞めているのは雅だと。
必死に抵抗するが、煉獄の者はやはり力が違う。意識が薄れてきた時、急に首が緩くなった。
手を離されたのだ。
佐久夜はずるずると床に崩れ落ち、苦しそうに咳き込んだ。しかしそれを慣れたように見下し、雅はやっと口を開いた。
「なんでウメさんを殺した」
佐久夜は驚いて顔を上げ、咳混じりに「殺してない」と呟いた。なぜ自分が今、そんなことを聞かれるんだと混乱しながら。
しかしその答えに、雅は逆に怒鳴った。
「なんで……殺したんだよ!!」
胸ぐらを掴み上げられ、小刀の先を首に突きつけられる。
(痛い……!!)
そろそろ息が吸えなくなってきた。まるでこのまま体の中の全ての臓器が口や目から飛び出してきそうだ。
佐久夜は必死に血の回らない手で抵抗する。
「だ、からっ! 殺してない!」
しかし小刀はプツッと首の肉を切った。ズキっと鋭い痛みが走る。
「いっ……痛い!! 痛い……雅……!!」
顔を歪ませ、必死に首を振った。しかし雅の勢いは止まらない。隠しきれない殺意と低音が部屋に響く。
「ニンゲン屋の前で笑ったじゃん」
「人間、屋……?」
佐久夜は必死に頭を回転させ、街で人間の肉を売っている店を思い出した。そして、その時思った感情も。
「売られてたう、でが、嫌いな奴の腕だっ、たから」
涙ぐみながらも佐久夜は少し微笑む。それに雅は動揺し、パッと首から手を離した。
暗闇には、黄金色にギラギラと輝く瞳がある。佐久夜の瞳だ。雅は思わずゾワッと鳥肌が立った。
「こ……これだからニンゲンの世話なんて!!」
「痛っ……!!」
雅は勢いよく佐久夜を床に倒し、膝をついて上から覆い被さった。その目は憎しみの色で満ちている。
「お前なんて、さっさと地獄行きになればいいんだよ!!」
佐久夜は荒い呼吸で雅を見上げる。さっきの立っている状態から押し倒されるまで、声をかける隙もなかった。
「俺の…………俺のお母さんを返してよ」
振り絞って出した声は、本人が思う予想以上に震えていた。佐久夜も思わず。
「雅…………」
垂れた熱い雫は、ポタポタと佐久夜の顔に流れていく。それに佐久夜は瞬きもせず、じっと覆い被さる彼を見つめた。
部屋が一人の泣き声で満ちた時、佐久夜はそっと雅の顔に手を伸ばし、静かに涙を拭った。
「……泣くなよ」
それでも雅の悲しみの波はおさまらない。
「うるさいっ!! そんな微笑んでおいて、裏ではウメさんを殺したくせに……全部お前の……ニンゲンのせいだ!!」
ぶわっと涙も声と同じ勢いで溢れた。
今誰が彼に優しい言葉をかけたとしても、それらは全て彼の悲しみに呑み込まれる。しかし、それでも佐久夜は微笑んだ。
雅も思わず、笑う佐久夜に黙ってはいられない。
「サクヤがここに来たせいでこうなったんだよ! 来なければウメさんは死ななくて済んだかもしれない!!」
しかし佐久夜は何も言わない。それがより雅をイラつかせていく。
「最後の会話もお前のことだったんだ……! なんでお母さんはお前のことを……なんで……」
掠れた鳴き声が部屋に響く。佐久夜は「お母さん」という言葉にピクリと指を動かし、やっと口を開いた。
「じゃあ逆に。なんでお前は母親、梅さんに頼まれたことをやらないんだ?」
「は……? 頼まれた、こと……?」
「俺と仲良くしろ。そう言われたんじゃないのか?」
雅は消えそうなほど小さくに「あ」と呟いた。佐久夜は話を続ける。
「それを守らないでどうする。お前は今、人のせいにして自分を慰めようとしてるだけだ」
「……」
「これ以上、他人に迷惑をかるな。馬鹿」
言葉はきついが、声は優しい。それはまるで誰かに言い聞かせるように。そして叱るのに慣れているような口調は、より雅の心を揺さぶった。
「それに……下なんて向いてたら、俺の美しい顔が見れなくなるんじゃないか?」
阿呆らしく明るいいつもの声に、雅は思わずハッと目を見開いた。視界には、佐久夜の微笑みがハッキリと映りこむ。
「さ……くや」
暗く沈んでいた雅の目に、徐々に光が生まれていく。雅はズズっと鼻水を吸うと、わずかに口を開いた。震える唇から出た声は、いつも通り抑揚のない冷めた声で。
「さ、サクヤの顔見て得する人なんかいないし」
「……」
佐久夜はピクッと眉を動かす。しかし、表情はどこか安心したようにも見える。
「お前、せっかく人が──」
「でも」
雅は佐久夜から離れ、静かに立ち上がった。そして手に持っていた小刀を着物にしまい、佐久夜に手を伸ばす。
「でも今だけは、サクヤの顔でも見てたいかな」
「…………そうか」
雅の手を取って立ち上がると、佐久夜は安心したように微笑んだ。
「よかった……正気に戻ったんだな!」
「……まーね」
雅はフッと鼻で笑い、戸を開け始めた。目の前には久しぶりの光が差し込み、肌が引き締まるような感覚になった。そして振り返れば、佐久夜がいる。
「僕、たしかにお母さんと約束したんだ。これからは、しっかりニンゲンの世話をやるって」
佐久夜は何も言わず、ただ目の前の顔を見つめる。
「だから期待しててよ、サクヤ」
雅の頬にはまだ、涙の跡が薄く流れていた。
梅を殺した犯人、佐久夜の死因。まだ分からないことはあるけど、いつか心の底から信頼し合えることができれば、大丈夫。どうか僕が一歩、成長できるように。
佐久夜もこちらに近づき、残りの戸を開けた。廊下に出ると、旅館の懐かしい匂いがする。
「よし、じゃあキクも励ましに行こう」
佐久夜は微笑みながら頷き、雅の隣で共に歩き出した。廊下に置かれた佐久夜のおにぎりも連れて。
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そして時は流れ数日後。
なんとか菊も雅も元気に働き始めた頃、あまねの湯に一人の女がやって来た。それはいつも通り一日の仕事を終え、旅館の最終確認をしていた時のこと。
急に玄関の戸が開き、カランと下駄の音が鳴り響いた。
「誰……?」
菊が慌てて玄関の方へ向かうと、そこには真っ赤で派手な着物の色っぽい女が立っていた。そして彼女はただ一言だけ呟く。
「花魁の綾よ。姐さんと呼んで」
まさか、この女が梅の代わりだなんて。雅は密かに唇を噛んだ。
雅:人間嫌いな少年
佐久夜:雅が初めて世話する人間
菊:雅と共にあまねの湯で働く少女
梅:菊の母親。あまねの湯の支配人
綾:?
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