46 藤色の左足
「あっ、もうそろそろ毒が回ってくる時間なんだね。ミヤ、早く言った方がいいんじゃないかい?」
どうやら、左足に刺さった毒が回り始めたらしい。
(前話より)
「愛してるなんて……絶対言ってやらないから……」
今、この瞬間も自分の体内に訳のわからぬ毒が入り込んでいる。そう思うだけで貧血になりそうだ。
しかし綾はそんな僕を見て、なぜか息を漏らした。
「ふん……なんだか分かんなくなってくるね」
何が。そんな視線を送ると、綾は少し首を傾げた。しなやかな茶髪の髪が肩を流れる。
「ミヤ、あんたがなぜそこまで『愛してる』を言うのが嫌なのか。それもこんなに脅してんのに。あたしには理解できないね」
「……別に。ただサクヤの前で、誰かに言うのが気に入らないだけ」
そんな言葉に綾は一瞬動きを止めた。よく分からないが、何か彼女を動揺させることを言ったらしい。
「あたしに『愛してる』を言わないのは、サクヤの前だからってことかい……?」
「そうだよ」
「わ、訳が分からない」、綾はそう顔をしかめると、少し怒りの混じった声を出した。怒りというか、嫉妬だろうか。僕には分からない。
「ミヤ、ずっと思ってたんだ。サクヤはあんたにとって一体何なんだい? 客? ニンゲン? 友人?」
「何って、それは……」
言葉に詰まった。
これからも一緒にいたい。離れ離れになんてなりたくない。ニンゲン界なんて戻ってほしくない。ずっと、このままずっと。ただサクヤは僕のそばにいればいい。
この感情は、友情……?
「あんた……どこか変だよ。ウメが死んでからかな。それに、あたしがあまねの湯に来た頃にはもうおかしかった。ニンゲン嫌いだったのに、いつの間にかこんなにニンゲンに執着して」
執着。
「違う……僕はただ、サクヤを幸せにしてあげたいだけだし。執着なんかしてない……!」
足から入り込む毒の違和感に耐え、首を振った。しかし綾はそれを鼻で笑い、皮肉に言った。
「あんなニンゲン嫌いだったくせに、今更手のひら返すのかい。始めの頃は、サクヤにひどく当たってたそうじゃないの」
「うん……それでサクヤを傷つけたのは分かってる。でも謝って許してもらえた。仲良くなれた」
「だからなんだい? 嬉しいのかい?」
僕は一呼吸置き、面と向かってはにかんで見せた。
「死にそうなくらい嬉しい」
そして瞬きほどの一瞬で。僕は足に刺さる簪に手を伸ばした。力を入れて引っ張れば、簪が足の肉から離れまいと必死に吸い付いてくるような痛みが走った。
思わず血が出るほど唇を噛んだ。その瞬間、綾が聞いたこともない焦りの声を上げた。
「ミヤ、あんた何してんだい!? やめな! ひどい痛みで歩けなくなるよ!!」
「サクヤを助けるためなら足一本ぐらい……」
より力を入れてやれば、ついにズッと簪が足から抜け始めた。しかしそれと同時に、心臓を太い針で刺されるような痛みが広がる。
「ミヤっ!!!」
「あともう少し……!!」
そしてやっと。
「あああああああああああああああああ!!!」
少しの血飛沫と共に、簪は抜かれた。そして。当たり前のように着いてくる焼けるような痛み。
思わず自分の足を切断しようか迷ったが、それよりも先に片足が動いた。綾はほぼ絶句だ。
「あんた、なんで立って…………」
使い物にならない青紫の左足を、右足が引きずる。向かう先は自殺行為寸前の佐久夜だ。僕が助けるべきは、目的は。彼しかいない。
「サクヤ……!! 操られてないで動いてよね……!」
ゆっくり近づいていくと、操り人形の彼の目から、熱い雫が流れ落ちた。この行為は綾に操られて行ったものか、それとも操りの術に必死に抵抗する心の表しか。
答えは明確だった。
「み、やび……」
そう笑う目の前の操り人形は、もう首に近づけていた針先を下ろしていた。思わず足の力が抜け、彼の腕の中に飛び込む。
「よかった……戻ったんだね、サクヤ……」
佐久夜は少し微笑み、何も言わず僕を抱きしめた。今更だが、左足がじんと痛んできた。
「ごめん、ちょっと座ってもいい?」
「雅……お前、足が……!!」
僕の左足は、まるで腐ったように青紫で染まっていた。もう感覚もない。
ぐったり屋根の上に座り込むと、目の前にある佐久夜の手が少し震え出した。思わず顔を上げてみれば、佐久夜の顔は真っ青だった。
「サクヤ……! 大丈夫!?」
「…………」
立ち上がれないことにひどく後悔した。佐久夜の顔が遠く見える。触れられない。
「みや、び……だめだ」
「なに、何が駄目なの!?」
「俺、ま、まだ……体が言うことを、聞かない……!!」
その瞬間。佐久夜の瞳は真っ黒に染まり、操られたように屋根の上から飛び降りた。一瞬だったのに、なぜかとても遅く見えた。
サクヤ──
一体僕は。何度、彼に手を伸ばしただろう。何度、そんな彼を助けられたのだろう。
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気がつけば、激しく何かが落ちた音と、遊郭を行き交う人々の悲鳴や叫び声が聞こえた。その声の中には、「死んでいる」「即死だ」という声もあった。
僕はなぜか屋根の下が見れない。
「ふふっ……一瞬術を解いてあげてただけだよ。ミヤ、あんたに最後の挨拶をさせてあげようと思ってね」
「…………殺したの?」
掠れた声で問いかければ、綾はまるで自慢するかのように叫んだ。
「えぇ、殺したさ!!! こんな高い屋根から落とした!! 今頃、頭でもかち割れてんじゃな──」
綾の口から大量の血が吐かれる。それは僕が一瞬で彼女の背後に移動し、佐久夜の持っていた針を突き刺したから。
復讐は、これで終わりだ。
僕は血のついた腕で、べっとり口元を拭った。涙も出ない体になったような気がして、なんだか寒気がした。




