33 逃走の助け
「ただいま」
いつもと何も変わらないあまねの湯。僕は佐久夜を地獄に送ってきたつもりで、台所にいた菊に話しかけた。
「あっミヤ! サクヤはどうだった? やっぱり辛そうだった?」
「うん。でも大丈夫。全部上手くいったから」
菊は安心したようにため息をつく。
「ならよかったぁ。てっきりサクヤがいなくなって凹むかと思ってたもん」
僕は返事をせず、ただ目だけを笑ってみせた。気づかない菊は続ける。
「じゃあ、掃除でも頼んじゃおうかな〜」
「どこをやればいい?」
「えっ、珍しくやる気だね。私はこの後、ミヤの部屋を掃除するから……」
僕の部屋? それはまずい。
実は。さっき自分の部屋に窓から入り、眠ったままの佐久夜を置いてきたところだった。もし菊に佐久夜が見つかってしまえば、罪がバレてしまう。
「自分の部屋は自分でやるよ。キクは夕食の支度をしてて」
「え、いいの? じゃあそうするね」
菊の元を離れ、数人の客とすれ違った後。僕はもう一度自分の部屋に入った。
「あ……雅」
部屋には、数分前に起きたのか目を擦っている佐久夜の姿があった。僕はそっと戸を閉める。
「キクにはバレてない。この後、夕飯の時間になって客の出入りも激しくなるから、そこの時間を狙って逃げよう」
「わざわざ出入りのある時間を狙うのか?」
「うん。だってその時間の接客員達は忙しいでしょ? 逆にチャンスだよ」
そっか、とだけ呟くと、佐久夜は床に寝転んだ。まだ気持ちの整理もできてないのは、仕方がない。
「別に落ち着いてからでいいよ」
「うん……」
今僕たちは煉獄の法を破り、逃げようとしている。サクヤには罪悪感があるかもしれないが、僕はない。むしろ幸福感の方が圧倒的だ。
「なぁ、雅。逃げた後、俺たちは何をすればいいんだ?」
「どっか遠いところで働くしかないでしょ。それで寿命が貯まれば、どっか家でも買おっか」
返事はない。不安なのはよくわかる。でもそんなの気にしていたら、生きてもいけない。
「とりあえず今は全部僕に任せて」
佐久夜は小さく頷く。そろそろ僕も最後の風呂掃除でもしようかな。
「じゃあ、サクヤ。僕は風呂掃除にでも……」
部屋にかけてあった布を取り、佐久夜に視線を向けたが、そこには誰もいなかった。
「は……?」
消えた!?
僕は急いで部屋を見渡した。
さっきまで話してたのに……なんで。もしかして閻魔大王に気づかれた?
いやでも気配がなかった。
しかしいくら部屋の中を探しても、佐久夜の姿はない。
「もしかして……」
この部屋にはもういない?
でも下手して旅館内を探せば、客やキクにも怪しまれることになる。
部屋で立ち尽くすと、ふわっと花のいい香りがした。
「大丈夫です。少し驚かせただけですから」
この声は。
「シノブ……」
声のする方へ体を向けると、窓辺に忍は立っていた。それも佐久夜の手首を掴み上げながら。
「お久しぶりです、ミヤビさん。かなり重い決断をなされたんですね」
「そういうのいいから。要件は分かってる。どーせ僕を罰するためでしょ」
忍は少し黙ると、音も立てず部屋の中に入ってきた。それと同時に佐久夜の手も離される。
自由になった佐久夜を、僕はそっと受け取った。
「雅……」
「大丈夫、僕の後ろに隠れといて」
向かい合うと、忍は少し微笑み、床に座った。どうやら戦うつもりはないようだ。
「表面上ではたしかにミヤビさんを捕まえにきました。ですが本当の目的。裏面は違います」
「裏面?」
「獄城での別れの際、私の言葉を覚えていますか?」
「別れの際……」
僕は必死に記憶を手繰り寄せる。そして、門の前での言葉を思い出した。
『また何かあれば来てください。力になります』
まさか。
「はい。実は私、お二人方を助けにきたんです」
「は……? でも忍は閻魔大王の子じゃん。そんな罪人なんかと協力して怒られないの?」
口車に乗ってはダメだ。まずは疑わないと。
忍は動揺も見せず、静かに首を振る。
「私が何をしようと閻魔大王は何も言ってきません。ですが」
一息吸う音でさえ、部屋に響いた。
「逃亡の助けの代わりに、こちらからも条件を出します」
「条件?」
「はい。簡単に言いますと、」
『閻魔大王と母上を会わせて欲しい』
「閻魔大王関係か……」
「厳しいことは理解しています」
閻魔大王は、今一番会いたくない人物。
よりによって自分から会いにいくことになるのか……
「会わせて欲しいって、忍の両親は遠いところにでも住んでいるのか?」
佐久夜は僕の肩から顔を出した。ようやく緊張が解けてきたようだ。
「いえ。私たちは獄城に住んでいます。ですが父上は、私や母上の顔も見たくないそうで……」
家族内のトラブルか。
「原因はわかってるの?」
僕の言葉に、忍は珍しく戸惑いの色を浮かべた。そして黙ると、静かに頷いた。
「今お見せします」
その言葉と同時に、右目の眼帯はスルスル解けていった。どうやら、不仲の原因は忍の目にあるらしい。
「あ……」
眼帯の下を見た佐久夜は、思わず声を息を漏らした。僕も声を抑え、唾を飲み込む。
露わになったその右目は、白色の左目目と違い、血の色だった。
それは恐ろしいほどの赤で、光が入る隙間もない。それも、その瞳だけで人を睨み殺せそうなほど。
「この呪いの目が原因なんです」
「呪い……見たらどうにかなるとかじゃないよね?」
それだとすごい困るんだけど。
「あ、いえ。それは心配いりません。ただ……ある術が使えるようになるんです」
「ある術?」
術という言葉に、佐久夜は興味津々だ。忍は淡々と続ける。
「私は蜘蛛の術を主に使います。ですが、相手にこの目で術を使うと、その相手の全てを見透かすことができ、命ですら握れてしまうのです」
「い、命まで……」
「昔。この目のせいで、私は何人もの無関係の人を殺してしまいました」
佐久夜の言葉に忍は頷き、眼帯を元に巻き始めた。きっと眼帯は、呪いの目から守るためにあるのだろう。
僕は今までの話を簡単にまとめてみた。
「つまり閻魔大王は、自分の子に呪いの目があるから、子を産んだお母さんから距離を置いたってこと?」
「そうです。私のせいで母上は嫌われてしまったんです」
そう言うと、忍は深々とこちらに頭を下げてきた。姫だという身分すら無視して。
僕が慌てて口を開く前に、忍は声を絞り出す。その声は後悔や、深い悲しみが感じ取れた。
「ですから頼みます。一度でもいいから母上を父上に会わせてください」
「で、でも……」
「このままでは、母上は父上の顔も見れず一生を終えてしまうかもしれません」
思わず佐久夜と顔を見合った。
条件を飲むとしても、僕たちは閻魔大王に存在を知られないよう動かなければならない。見つかれば罰せられるのも当たり前。
でも成功すれば、もう僕たちは自由になれる。
「雅。やる価値はあると思うんだ」
そっと手が肩に乗せられた。ほんの少し暖かい。
「サクヤは本当にいいの……? 失敗すればもう全部。何もかも終わりになるよ?」
「ふっ、逆に俺がこのまま親子関係の悩みを放っておくと思うか?」
「この俺が」とも付け加えられる。
佐久夜はいつでも他人思いだ。例えこれも猫を被っている姿だとしても。
僕は思わずそんな佐久夜に頷いてしまった。まだ頭を下げたままの忍に向き直る。
「分かった。その条件、乗るよ」
忍はバッと顔を上げる。
「ほ、本当ですか……?」
そんな顔で言われてもなんだけど。
僕は無意識に首を手で触った。後ろからクスッと笑うと吐息が聞こえたが、それは無視しよう。
「まぁ……礼ならサクヤに言ってよ? あと条件には乗ったけど、家族本人のシノブも協力してよね」
「……っ! もちろんです」
微笑んだ忍に、佐久夜は寄り添う。
「よし。そうと決まればもう仲間同士だ! 早速風呂にでも入ろう!!」
「えっ。風呂、ですか?」
どうやら知らないようだ。僕は引き出しから布を取り出しながらつぶやいた。
「ここ。旅館だけど、銭湯としても有名なんだよ」
その日の真夜中は、親睦会や作戦会議も含め、三人で銭湯に入った。
忍が危うく女の姿で湯に入ろうとしたときは、流石の僕も大声を上げて叱った。でもそれより、佐久夜の真っ赤になった顔を冷ます方が一番苦労したかな。




