30 終盤
乱れた黒い前髪が、力無く腕と一緒にはたりと垂れ下がった。
そして佐久夜の目尻から涙が一雫。やつれた頬を伝い、僕の手のひらを暖かく濡らした。
なんでさっき佐久夜に自分の姿が見えていたのかも分からない。どうして触れられたのも分からない。
でも、これだけは分かる。
佐久夜の母親。
あいつだけは、絶対許しておけない。
「おい」
過呼吸が治った母親に、僕は低い声と一緒に睨んだ。
「あ、あんた一体──」
「いや僕のことより、今の自分の状況でも確認したらどう?」
僕はサッと動き、後ろに倒れている佐久夜を母親に見せた。母親の顔は絶望に変わると思ったが、なんと特に変わらなかった。
そして冷たく言い放つ。
「あぁ、何。死んだの」
「…………お前、悲しいとか後悔とかないわけ?」
しかし母親は呆れたように、自分の髪を整え始めた。馬鹿にしたような呆れ口調も、全部さっきの状況からは想像もつかないものばかりだ。
「だってあの人を殺したのよ? 死んで当然じゃない」
これが本性……か。
こんなこと、サクヤが知ったら絶望するに決まってる。
「お前、サクヤのこと何も知らないでしょ」
「いいえ……知ってるわよ。佐久夜は、私のことが一番好きだってこととかね」
この、クズ女。
「でもそんなサクヤは死んだんだよ。もう、いないんだ。つまり、もう誰もお前を愛してる奴はいない」
「は……?」
「お前は、独りになったんだよ」
母親はその言葉に動きを止めた。やっと、今の自分の状況に恐ろしさを感じ始めたのだろう。
「佐久夜がいない……? えっ、じゃあ私は一体どうなるのよ!? 誰に守ってもらえれば…………って痛!!」
僕はそんな彼女に手を振り上げた。手は、勢いよく彼女の頬に当たった。
「反省しろよ」
「は…………?」
「自分がしてきたこと。これから地獄に行ってしまうサクヤの気持ちを」
僕はそっと机の上にある絵を、母親に渡して見せた。どうやら彼女は、それを知っているようだった。
わずかに、瞳孔が震えていた。
「こ、これ……佐久夜の絵……」
「サクヤの夢は、いつか母親と二人で暮らすことだったんだよ」
彼女の瞳が大きく開かれた。そして僕は、大切な佐久夜からの遺言を語った。
母さん。
約束、破ってしまってごめんなさい。
決して独りにするつもりはなかった。
ただ、父さんのことをそんなに想ってたとは知らなくて。
母さんは、本当に俺のことを愛してなかった?
本当に、ただ利用してただけだった?
でもまぁ。
どっちにしろ、俺はなんでもいい。
母さんの役に立つなら、なんでもいい。
嘘でも俺を、抱きしめてくれるなら、
なんでも良かった。
母さんには、俺のことはこれから忘れてほしい。
もう一度、新しい人生を歩んでほしいから。
俺は死ぬけど、母さんは生きる。
それはめちゃくちゃ喜んでいいことだと思う。
次の新しい約束は、「あの世で会うこと」でどう?
何年先になるかな。
母さんならきっと、あと五十年は先だろうな。
先に地獄で、母さんの幸せを祈ってる。
大好きな、母さん。
本当に、ありがとう。
俺を産んでくれて、ありがとう。
聞き終えた母親の顔は、酷かった。
「佐久夜……佐久夜はどこなの……?」
「もういない。お前が殺したんだよ」
「…………」
絵には、涙の跡が滲んだ。母親はクシャッと音を立てながら絵を抱きしめる。そして、外からはパトカーのうるさいサイレンが聞こえてきた。家の鍵をこじ開ける音も。
ふと自分の手を見ると、手は光になって消え始めていた。
もう、時間みたいだ。なら最後に。
「サクヤのお母さん」
「………………はい」
「一生悔やんで生きてください。そうすればきっと……少しは地獄でも涙、流せますよ」
そう言って僕はゆっくりと、部屋の隅に立った。もう、足も消え始めている。
「さっ佐久夜くん!! やっと助けに…………え?」
部屋に警察、花火がやってきた。しかし残念ながらそれはもう、かなり遅い登場だった。
「佐久夜くん!? ねぇ、佐久夜くんってば!! 起きて!! 何、何があったの!?」
佐久夜を揺さぶる花火は、警察に押さえつけられる。涙を流し、必死に叫ぶ姿は僕に似ていた。
母親も警察に囲まれ、もう僕の姿は誰にも見えないほど、小さな光になって消えていった。
****
「……っ!!」
目を開けると、そこは佐久夜が飛び込んだ液体のある部屋だった。僕はどうやら床に寝ていたみたいで、まだ服や体が濡れていた。
起き上がってみると、すぐ側に佐久夜もいた。しかし佐久夜はどうやら先に起きていたようで、自分に背を向けて座っていた。
「サクヤ、」
自分の声に佐久夜の背中はびくりと体を震わせた。
生きてる。
サクヤが、生きてる。
その喜びが、僕の胸いっぱいに集まってくる。しかし、佐久夜はなんだか泣き出しそうな声で僕に言った。
「……ごめん」
ご、めん……?
「なんで謝るの?」
「黙ってた……嘘をついた。俺は、本当は事故死じゃないって」
僕はしばらく黙ると、無意識に少し微笑んだ。
「生きててよかった」
「……人間界では死んでる」
抱きしめようと手を伸ばしたが、佐久夜は気配を感じたのか叫んだ。
「触らないでくれ」
「えっ……」
よく見ると、佐久夜の肩は震えていた。どうやら、佐久夜も過去の記憶を自分で見ていたようだ。
「今誰かに抱きしめられたら……止まらなくなる」
「……ふっ。でも、一人にするなって言ったのはサクヤじゃん」
僕は構わず後ろから抱きついた。少し佐久夜の、桜の匂いがする。
「…………雅の、馬鹿」
佐久夜はもっと小さくうずくまり、声を殺して泣いた。僕はそんな彼を撫でることしかできない。
いや。むしろ今思うと、撫でることができるようになった、のかもしれない。
「辛かったね」
佐久夜は何度も頷いた。少し震えが治り始めると、彼は顔だけこちらに振り返り、小さな桜のように微笑んだ。
「お前の手、あったかいな」
そう嬉しそうに、佐久夜は目尻から最後の涙をこぼした。
もう、これで泣かせるは最後にしたい。
僕は心の中で、ポツリと呟いた。




