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28 母という束縛


 次の日。家には一人の男の影があった。

 神は、叶えられない願いを叶えることなんてできない。



「佐久夜。おい、さーくーや!!」



 真冬の早朝。自分は強く揺さぶられ、目を覚ました。



「え…………あっ」



 目が合った時には、もう遅かった。ものすごい速度の拳が、自分の顔に振り下ろされたのだ。

 バキッっと嫌な音が、部屋にも脳にも響き渡る。目覚ましには、痛すぎた。



「い、痛い……!」



なんだ? 何が起こった?

母さんは、母さんは無事なのか?



 ふと顔を押さえていた手を見ると、そこには真っ赤な血が張り付いていた。鼻血が出たのだ。

 頭が重い。フラフラする。



「よぉ。いいお目覚めだな」



 前には、なぜか笑顔の父さんが立っていた。毎週日曜は、帰ってこないはずだった。



嘘、だ。まだ花火は来る時間じゃないのに。

失敗……いや、でも()()時間はある。



「はは……父さん。父さんこそ、頭がまだ冴えてないんじゃないか?」



時間稼ぎには、やるしかない。



「あぁぁぁーー!!」



 俺は人生で初めて、人を殴った。拳を振った瞬間、胸に燃えるような感覚が走った。



「────がッ」



 父さんはそれに思い切り床に尻餅をつく。毎日やられてきたからか、どこが一番殴られて傷つきやすいのか、理解していた。



「よし……!」



 父さんが倒れてる間に、確認しないといけないことがある。母さん。母さんは──

 部屋の隅で震えていた。



よかった……怪我はないみたいだな。



「お、おいおい…………佐久夜ぁ。いつそんな生意気な口を叩ける立場になったんだ? あぁ!?」



 起き上がった父に、ビリッと部屋の壁が震えた。



落ち着け。大丈夫。助けが来るまで、あと少しだ。



 父は自分に向かって、思い切り足を振り上げる。拳だと油断していたのが悪かったのか、視界はすぐに横転してしまった。


 それに足が床に強く擦れ、昔の傷口から血が流れ出だした。思わず押さえても、逆に手の皮膚の汗が染みるだけだった。



「いっ……!! くそ……」


「はははっ……殺してやる、お前ら二人とも絶対殺してやる!!」


「父さん……」



 今日の父の目は、いつもと違った。どこか狂気に満ちている。変なクスリでもやったのかもしれない。

 それに母さんはまだ端で震えていた。



「あ、あなた……!」


「うるせぇ!! 大体お前が悪いんだよ! お前が浮気なんて気づくから!!」


「おい、母さんのことを悪く言うな!」



 父さんの標的は自分だけでいい。母に近づこうとしてた父の意識を、なんとかこちらに向けておかなければならない。



「お前もうるせぇガキだなぁ、あぁ!?」



 横たわる自分の手首を掴み上げられる。だらんとした自分の体は、痛みを感じない。

 俺は抵抗できない代わり、父さんを思い切り睨み殺した。



「前まで黙っておとなしかったのによぉ、いつこんな悪い子になったんだぁ?」


「……お前に答える必要はない」



 それに父さんは舌打ちをすると、腰から何かを取り出した。それはキラッと光り、ひどく鋭いもの。



「お、今動揺したな? そうだ。包丁だ」



こいつ……本気で俺や母さんを殺す気なのか!?



「今、謝って土下座してくれたら許してやってもいい。どうする?」


「……」



土下座? 俺がこいつに?



「お前が大変なのは知ってる。ちっぽけな約束のせいでママのために頑張らなくちゃいけないもんなぁ?」



 父さんは笑った。たかが包丁を持っただけで、なぜこんな勝気になるのだろう。



阿呆らしい。



「父さん。僕は母さんを守りたいから守ってるんだ」


「違うな」



 ドキッと心臓が跳ねた。即答で答えられるなんて、驚いた。



「お前はただ、一人になるのが怖いだけだろ」


「…………は?」


「母さんを守らないと見捨てられるとか思ってんだろ? そんなんだから利用されるんだ、あいつに」



 父さんはそう言って隅の母さんを顎で指した。それに彼女本人は何も言わない。ただ、口をぱくぱく振るわせるだけだ。

 そうただ、いつも通りに。



か、母さんが僕を利用してる……? 

いや、そんなわけない。こいつの口車には乗らないからな。



「こ、殺したいなら殺せばいい。母さんに手を出さないって約束したらな」



 きっとあと数分で五時になる。そうすれば、花火や警察が助けに来てくれる。それまでに()()()()無事でいてくれればいいんだ。


 父は少しの間黙ると、真顔で言った。



「無理に決まってんだろ」



 そして呆れたようにため息をついた。



「どっちか殺してもう一人は生かすとか。俺がそんな優しい奴に見えるか?」


「……最低だな」


「まずは母さんからだ」



 父さんは俺の手を離し床に落とすと、強く腹に蹴りをつけた。



「────ぁッ」



 自分の口から唾液が飛び出す。最近食事をとっていなかったからか、量も少なく、ただ喉あたりが気持ち悪い。



こいつ。俺が母さんを助けないよう、わざと動けないようにしたな。



「母さん! このままじゃ危ない! 逃げろ……!!」


「さ、さくやぁ……」



 しかし必死に叫んでも、母さんは動かず泣いていた。それも必死にこちらに涙目を向けて。

 焦りというより、俺の中では戸惑いが大きかった。



「助けられないの……!? ねぇ、佐久夜!!」



 ここで母さんが殺されればもう、自分には何も残らない。これまで頑張って我慢してきたことも、全部。

 全部父さんに壊されてたまるか。



「はぁ…………なんだよ、()りねーな」



 俺は、無意識に父さんの足首を掴んでいた。



「行かせない……絶対に」



 自分の低い声に父さんは眉を傾けると、床にしゃがみ込み自分と目線を合わせた。

 酒臭い匂いが鼻を刺激する。涙が出そうだ。



「ハッ、ほらな。お前はこんなとき、なんにもできなくなる。こんな弱い力で足首を掴まれたって、簡単に振り払える」



 言葉通り、父さんは最も簡単に自分の手首を振り払った。まるで弄ばれているようだった。



「もう、終わりにした方がいいんじゃねーの?」


「お……終わりに?」



 そして瞬きをする暇もなく、父さんは自分の顔に勢いよく包丁を振り落とした。



「ぁ」




──殺される。




 目を瞑ったが、なぜか耳の側で包丁が床に突き刺さる音が聞こえた。



「…………え」



 包丁は、目の前の床に刺さっていた。それに恐る恐る顔を上げると、父さんは少し笑っていた。本当に久しぶりの、優しい笑顔だった。



「お前が殺せよ。母さんっていう、()()を」



 その言葉を聞いた瞬間、部屋が一瞬で無音になった気がした。



「俺が……母さんを?」


「あぁ」


「そ、そんなことできるわけないだろ!!」


「そんなこと()()()、じゃなくてか?」



あ……



「お前、母さんにありがとうって言われたことあるか? 逆に、守ってもらったことはあるか?」



……ない。

なかった。でもないからって、それがなんだっていうんだ。



 でもなぜ今、俺は少し動揺したんだろう。



「まぁそうは言っても、俺は守ってもらうことが大事だとは思ってねー。でもな」



 父さんは俺の手のひらを掴んだ。ゴツくて、どこか懐かしくなる手だった。



「自分を傷つけた奴は許せねーんだな」



 手のひらには、いつの間にか包丁が握られていた。



「俺は……俺は今まで母さんを一生懸命守ってきたんだ! 今更、それを壊したりなんかすれば……」



 父さんに引っ張られながらも立ち上がり、隅で震える母さんを見つめて叫んだ。それは他人からも、自分から見ても狂気に満ちていた。



「佐久夜……私の佐久夜……お願いだから、包丁(それ)を下してちょうだい……」


「ほら。楽園はすぐそこだぞ」



 あぁ、雑音に両耳を塞ぎたくなる。



俺は、本当に利用されてきただけのか?

母さんは、俺を本当に愛していなかったのか?



「か、母さん……」


「なんで……なんで私がこんな目にぃ……!!」



俺の心配はしてくれないのか。

こんなに、こんなに痣だらけなんだ。さっき開いた足の傷だって、すごく血が出てる。


痛い。痛いよ。助けてよ、母さん。



「俺も…………守ってよ」



 グッと、包丁を持つ手に力が入った。



「佐久夜……佐久夜やめて……!!」



 そしていつの間にか、俺は包丁を振り下ろそうと腕を上げていた。自分も、父さんの前で毎日こんな顔をしていたのだろうか。



あぁ、惨めだ。



「好きだよ、母さん」



 そして俺は、思い切り腕を振り下ろした。



「いやぁぁぁぁぁぁ!!!!」




…………ぁ





 しかし、その腕は途中で動きを止めてしまった。すぐ側の机の上に置いた絵が、目に入ってしまったんだ。

 そう、子供の頃に描いた。あの絵。




『俺は母さんが好きだ。優しい人だと思ってる』

『母さんはボロボロの俺を抱きしめてくれたんだ。俺はちゃんと母さんの役目に立ってるって……嬉しかった』

『これが俺で、こっちが母さん。いつか、二人であの家から出ていくのが夢なんだ』




 まぶたの裏が酷く熱くなっていく。



花火……なぁ、花火。

こんな俺でもまだ優しいって、また言ってはくれないだろうか。


言ってくれたら俺は、本当の、本当のこの地獄から──



 そして俺は振り返り、憎らしい「あいつ」に勢いよく包丁を振りかざした。



「なっ、おい!? やめっ…………!!」



 一瞬にして、部屋に真っ赤な血しぶきが宙に舞っていく。誰も何も、言える暇なんてなかった。



「さ……刺した……俺が、父さんを」



 包丁を床に投げ捨て、自分の顔を覆った。床には心臓を人刺しされた男が一人、死んでいた。

 死は、こんなにも呆気ない。


 それに、罪悪感なんてひとかけらも無かった。刺した感触も一瞬だったし、苛立ちの方が恐怖より大きかったから。



これで……全部終わったんだよな。



 そう解決させれば、俺は愛する母の元へ微笑みを向けた。



「母さん、もうこれで邪魔するものはいなくなった……! やっと、俺たちは幸せになれるんだ!!」


「…………よ」


「え?」



 しかし、母親はうつむいたまま叫びだした。今までにないくらいの、泣きたくなる大声だった。



「何してくれたの!!! この馬鹿息子!!」



 ぐわあん、と頭の奥が曲がる音がした。



「え……? お、俺はただ──」


「私はあの人にもう一度好かれて幸せになりたかっただけなのに……!! なんで殺すのよ!!!」



父さんと、幸せに……?



「あんたはただ、殴られて大人しくしてくれればよかったの!!」


「………………っい!!」



 俺は短く声を上げた。今までない痛みが、急に腹に走ったのだ。



なんだ……なんだこの痛さ……腹が燃えるように熱い!!!



「あんたなんて……産まなければよかった。もう……もう私の人生めちゃくちゃよ!!」


「かっ母さん……た、助け……て」



腹が……潰される。痛い。呼吸ができない。



 その痛みにふと、自分の腹を見た。


 ヨレヨレのシャツには、今まで見たことないくらい真っ赤な血が滲んでいた。そしてそこには、さっき自分が床に落としたはずの包丁が深く刺さっていた。



あぁ、なんだ。

俺、腹を刺されたんだ。母さんに。



 気付けば、もう痛さは消えていった。それも、立っている感覚でさえ。


そしてその瞬間。


 自分の倒れる音と、甘い藤の香りが俺を包んだ。



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