26 隠れた優しさ
家への帰り道。歩道橋から下を覗いてみた。
ここから落ちれば死ぬだろう。確実に。車にも轢かれれば、なんて幸運なんだ。
そんなことを考えていた時。ふと、寒いと感じた。家から急いで走ってきたから、制服のズボンにワイシャツという冬には寒い格好となっていた。
……馬鹿だな、俺。
今から死ぬのに服装なんか気にして。
そしてついに、俺は歩道橋の柵の上に座った。ぶらぶら揺れる足の下は、自分にとって楽園か、地獄か。
「やっとこれで楽になれる……」
そう呟き、自分は微笑んだ。そしてもう柵から身を乗り出そうとした時。なぜか後ろから誰かに抱きしめられる暖かさを感じた。
「よくない、よくないよ。サクヤ」
後ろから。藤の香りがする。
「だ、誰──」
思わず振り返ったが、そこには誰もいない。
あれ……たしかに抱きしめられた感覚だったはず……
とその時。
「佐久夜くん!? 何してるの!!」
歩道橋の端から花火が走ってきた。
自分は慌てて再度落ちようと試みたが、なぜかかさっきより下の景色が怖く感じた。そして案の定、花火に腕を掴まれ、自殺など完全にできなくなった。
「馬鹿!!」
足が地面につくと、頬に鋭い痛みが走った。花火は振り上げた手を下ろし、首を横に振る。
その目は怒っているように見えたが、悲しんでいるようにも見えた。
「死ねば楽になれると思った!? 残念、そんなわけないよ!」
「え……えっと」
急な説教に戸惑いながらも、自分は話を聞いた。聞いていたいと思った。
「私は虐待なんてされたことないし、佐久夜くんの本当の気持ちも分からない」
でもね、花火は切なそうに笑った。それはどこか、いつしかの母と重なる。
「死んでもいいことなんかひとつもないのは分かるよ。自分が気づいてないだけで、自分に生きててほしいって思ってる人は必ずいるの」
「……でも俺には」
「私がいるじゃん! 今、私がこうやって生きてて欲しいって、直接言ってる!」
思わず目を丸くし、目の前の少女を見つめた。
か弱そうなのに、こんなにしっかりした優しい人がいるんだ。
知らなかった。気づけてなかった。
「迷惑……かけたな。ごめん」
「ううん。迷惑なんて思ってるわけないでしょ」
微笑み、笑いあった。
花火となら、辛い日々も忘れられるかもしれない。
心の中で、そんなことを考えていた。
しかし佐久夜の隣。姿が見えない雅は知っている。いくらここで助かったとして。前へ進もうとしたって。希望が見えたって。
『佐久夜の死』
その結末は変わらないことを。
****
「花火!」
放課後。自分は嬉しそうに花火の元へ走った。今日は花火から「出かけよう」と誘いをもらったのだ。
「佐久夜くん! そ、その……昨日の夜は大丈夫だった? 虐待、とか……」
「あぁ、気絶せずに済んだから心配ない」
安心させるつもりで言ったが、花火の顔は曇ってしまった。気絶しなかっただけましな方だった。
「そう……でも無理だけはしないで」
「……」
気まずい沈黙が流れる。それに花火は慌てて口を開いた。
「あ、あのね。佐久夜くんが良ければなんだけど、明日の朝、警察を呼んで佐久夜くんの家に行ってもいい?」
「え…………警察?」
「うん。このままじゃ虐待は止まらないでしょ。これなら佐久夜くんを助けられるなって」
今まで、誰にも自分から助けを求めたことはない。この地獄から手を伸ばしてくれる人など、神や天使だけだと思っていたから。
警察なんて……役に立ってくれるだろうか。あの父さんを、どうにかしてくれるだろうか。
そうは思いつつも、俺は言ってしまった。
「本当に終われる……なら」
「任せて。絶対に助けてあげるから」
彼女の真っ直ぐな目。信じたくなる。
今日は映画館や買い物でもするのかと思ったが、違った。何回か電車に乗り、長い時間揺らされ、今。
駅に着くと、視界にはたくさんの山や川、田んぼが広がった。
「花火。そのこれは……一体どういう……」
「あぁ、ここは私が引っ越す前に住んでた町。田舎でしょ?」
花火はクスッと笑った。
山なんて……何年ぶりだろう。
「ほら見て、あそこの家。あれが私の元々の家」
「あぁ……」
「でも今回の目的はそこではありませ〜ん!! 今日は……」
「わっ」
両手でガシッと頭を掴まれた。そして家とは反対側に顔を向けられる。そこにはなんと、小さな山があった。
「気分転換、しよっか!!」
耳元で、元気に笑う彼女の声が聞こえた。
****
日の当たる山だったが、まだ少し雪が草木に残っていた。
まぁ、冬だしな。それもそうか。
また始めは散歩程度の感覚だったが、徐々に坂を登るのに体力を使い、体はとてつもなく熱くなった。
そこで、近くのベンチで少し呼吸を整えることにした。
「はぁ……意外とこんな山でも大変だね……坂きついよ〜!」
自分から山に行くと言ったはずが、花火はもうぐったりしていた。駅の近くで買った水を差し出すと、花火は勢いよく口に流し込んだ。
「生き返る〜」
「冬でも熱中症にはなるからな。水分は取るんだぞ」
「はいはい。佐久夜くんって時々、母性出るよね〜」
母性……
「親みたいだな〜って…………あっ」
花火は口元に手を添え、急に眉を下げた。
「ごめん……親とか言っちゃ駄目だよね」
「……いや、別に気にしてない。好きなことを好きなだけ話してくれた方が嬉しいしな」
花火は黙ると、少し申し訳なさそうに微笑んだ。耳が赤くなっていたのは、寒さのせいだろうか。
お互いの髪が冷たい風で揺れだした。
「わ、私ってほんと駄目だよね。今日は佐久夜くんを楽しませようとしたのに」
花火はそうモジモジしながらセミロングの髪をいじった。少し甘い良い香りがする。
「山もこんなにキツイし、ちっとも佐久夜くんが休めてないって。気づいちゃった」
「……ふっ、花火は優しいな」
そんな言葉に、目の前の花火は首を傾げた。
「優しい……? わ、私が?」
「うん……こんなに俺のことを考えてくれるんなんて。俺も時々、自分が花火に迷惑をかけてないか心配になる」
すると花火は「迷惑じゃないよ!!」とこちらに身を乗り出して叫んだ。
「転入してきて迷子の私に一番に話しかけてくれたのも佐久夜くんだし、大切な猫を夕方まで探して見つけ出してくれたのも佐久夜くんだし、初めてかっこいいと思ったのも……佐久夜くんだし」
花火の耳はもうとっくに真っ赤に染まっていた。自分の鼓動も勝手に早くなる。こういう時、なんて言えば良いのだろうか。
「佐久夜くんがみんなに優しいのも知ってる。好かれてるのも知ってる。それに、少し猫を被ってるのも……知ってる」
猫を被る。
「あぁ……バレてたんだな。俺が優等生になろうとしてたのを」
「ふふっ、でも佐久夜くんは優等生じゃないよ。そう、ちょっとお節介なフレンドリーボーイ!!」
「ははははっ、なんだそれ」
お互い笑い終わると、花火はなんだか遠慮がちに、真剣な話をし始めた。
「だから、昨日みたいに自殺なんて……しないでほしい」
「……うん」
「あと私。歩道橋の下で佐久夜くんを見つけた時なんだけど、佐久夜くん、なんか変な動きしてなかった?」
変な動き……誰かに抱きしめられたと思って振り返ったことか?
「あ〜……その時は、誰かに抱きしめられた気がして……」
「えっ、なになに幽霊?」
「いや、多分俺が疲れてただけだ」
苦笑しながら言うと、花火はニヤニヤ笑った。
「もしかしたら、佐久夜くんのことを守ってくれた神様かもよ!」
「神様? あははっ、面白い発想だな」
「あっ! 今、ちょっと馬鹿だって思ったでしょ!!」
俺はそう怒る彼女に笑った。花火は、よく笑わせるのが上手い。またしばらく二人で笑うと、俺は自分から過去のことを話した。




