25 父さん
あぁ……酷い。
息子の名前も忘れるこいつが父親なんて。
(前話より)
「俺は佐久夜。とっ父さんこそ、その……しばらく……帰ってこないんじゃ、ないのか」
緊張してうまく舌が回らない。警戒してないと、いつ殴ってくるか分からないから。しかし、今日の父はのんびりとした口調で煙を吐いた。
「ストレスと、金が足りなくなった」
しかし俺は察した。これから自分はストレス発散のために散々殴られ、せっかくのバイト代をむしり取られる羽目になると。
そして次の瞬間。やはり父はこちらに拳を振り上げ走ってきた。
あぁ、くる。
俺はそれをまるで抱きしめるよう無意識に両手を広げ、受け止めた。
ドゴッと頭に嫌な音が響くと、壁に叩きつけられる。目が飛び出しそうになる感覚に、視界がチカチカ点灯する。
「あーあ。俺ってば不幸だよなぁ」
父はゆっくりと近づいてくる。片手にはまだ煙の出ているタバコ。動こうとしたが、体はびくともしなかった。
笑える。
「妻に浮気はバレるしさぁ!!」
左頬に拳が振られる。
「金はねぇし!!」
右頬にも振られた。唇から真っ赤な血が流れる。
痛い。
「でもお前だけはいい子だなぁ、佐久夜」
そう言われて誰が喜ぶんだ……このくそ野郎。
父は自分の手のひらにタバコを強く擦り付けた。焼ける音と、激しい痛みが全身に痺れた。
「うぁ……あ、ぐっ」
タバコが肌から離れた途端、ビリビリと手のひらが震えだす。まだこれは軽い方だ。
誰にも言えないようなこと……されるよりかは。
「ほら、立てよ」
上を見上げると、そこには毎回楽しそうに笑う父の顔がある。
今から台所に走って包丁を取り出し、彼の顔面に突きつけて、皮を剥がして解体して。自分が味わった何倍もの痛みを味わせたい。
何度も思ったことだ。しかしそれができないのは、一体何故だろう。
意識がはっきりしてきた頃。いつの間にか父に胸ぐらを掴み上げられ、階段の上を引きずられていた。
それに一気に血の気が引いた。二階は、自分の部屋と母さんの部屋があるのに。
「どこに、行く、気だ!」
「ん〜? 母さんに会いに行くよ〜」
「そ、それだけはダメだ!!」
必死に首を横に振って叫んでも、いつだって父は面白そうに笑うだけだった。
俺は昔、母さんとした約束がある。それは絶対で、当たり前のことだと母さんは言った。
『母さんが佐久夜を産んだかわりに、これからは私を守って』
これは父の浮気が発覚した時に作った。始めは母さんに向けて一方的に暴力を振るっていた父に、約束を思い出した母が、ある日提案したのだ。
自分の代わりに、息子の佐久夜を自由にしていい……と。
自分は嫌だと言ったが、約束を言われては首も横に振れなかった。そしてそれからというもの、自分はほぼ毎日殴られた。
いつだって愛する、母さんのために。
「母さん! 逃げろ!」
必死で叫ぶと、二階の部屋から物音が聞こえた。
よかった。声は聞こえたみたいだ。
しかし父はかまいもなく、母の部屋の戸を開けてしまった。部屋には絶望の表情を浮かべた母さんが、布団の上に座っている。
「あ、あなた……」
「よぉ。あっほら。今お前の代わりに佐久夜が頑張ってくれてんぞ〜」
そう言って父は痛々しい自分の頭を床に叩きつけた。床に真っ赤な鼻血の跡ができる。
「佐久夜!!」
「母……さん」
母さんは震えながらも自分の名前を呼んでくれた。だけど、喜んではいけない。
「早くお母さんを守ってよ!! 馬鹿!!」
悲鳴のような声が、キーンと脳内に響いた。
ごめん……母さん。守りたいけど、体が全く動かない。
それに、意識だって──。
その日は、本日二回目の気絶で終わった。あっけない。
****
朝目が覚めると、昨夜と同じ場所で。同じ体型で倒れていた。ズキズキと身体中が痛い。
でもそれより。
「母さん!!」
急いで体を起こすと、もう溢れそうなほど目に涙を溜めた母さんが座っていた。泣きそうな母さんは、久しぶりに見た。
そっと手を伸ばしたが、バンッと振り払われる。ビリッと昨夜の傷にも触れ、激しい痛みが走った。
「このろくでなし!」
母の怒鳴り声に、ハッと顔を上げた。もう彼女の頬には、ボロボロと大粒の涙が流れていた。
「よくも約束を破ったわね! ほら見なさい!!」
母は自分に右手を差し出した。そこは赤く腫れている。しかし、こんなの自分にとっては擦り傷程度。
「こ、これが何か……」
「馬鹿!! あんたのせいでお父さんに一発叩かれたのよ!!」
そう言って母は泣き崩れてしまった。自分は何も言えず、ただ泣き崩れる母を見ていると、息が苦しくなっていった。
「馬鹿、馬鹿!! あんたなんて私の息子じゃない!! 死んでよ! ねぇ死んで!」
「か、母さ──」
「お願いだから……もう……みんな私の前から消えて」
「ご…………ごめんな、さい」
そう言い急いで部屋から出て行き、階段を駆け降りた。今はもう、この家にない方が良い。俺は勢いよく家から飛び出した。
走ってる途中、石につまずき、派手に転んでしまった。もう痛さの感覚は無い。
立ちあがろうと足に力を入れたが、ただ全身が醜く震えるだけだった。思わず小さな過呼吸になる。
『馬鹿!! あんたのせいでお父さんに一発叩かれたのよ!!』
脳内にこびりつくあの怒鳴り声。思い出すと、何故かまぶたの裏が燃えるように熱くなった。呼吸も苦しくなる。
「かっ母さん……俺は、俺はもっと痛かった……!!」
火傷だってした。叫ばずに母さんのために頑張ったのに。あんな一度叩かれただけの腫れに、自分は罵倒されなければならない。
「うっ……!」
ツーン、と響くように鼻の奥が痺れた。
やっと十五歳になったのに。これで、少しは大人になれると思ってたのに。
ただ母さんに怒鳴られただけで泣くとか。そんなの、そんなの。
悲しすぎる。
「くそっ……」
せめて鼻水だけでも拭こうとズボンのポケットをあさった。しかし出てきたのは、「児童相談所」と書かれた小さな紙だった。
そんな小さな紙に、自分はなんだか怒りを覚えた。大きく息を吸い、がむしゃらに叫ぶ。
「ぁああああああっ!!!」
自分の初めての苛立ちの声に、どんどん怒りが込み上げてくる。全身が熱く燃え、血が逆流するような感覚。
俺はただ、やるべきことをしただけなのに……!!
しばらく思う存分紙を破り捨てると、心は落ち着いていった。周りにはもう、自分の荒い息だけが聞こえる。
全身の傷が、痛い。昨日の傷もその前の傷も、かさぶたも。全て容赦なく開いてしまった。あまりの痛さに、心臓が引き裂かれそうだ。
「……ははっ……本当に、引き裂かれればいいのに」
ポツリと、疲れ切った吐息とつぶやいた。




