1 雅と人間と虫
※1話前半は三人称で進めさせていただきます。(後半からは一人称)
※少し読み進めた後、登場人物が分かりにくいという方は、後がきに簡単に人物紹介がありますので、そちらを先にご覧ください。
『さぁさぁ、寄ってらっしゃい見てらっしゃい!!』
藤色の髪をなびかせながら、少年が人波をかき分けて走っていく。
街は今宵も赤い提灯の灯りに包まれていた。闇夜に浮かぶ月と提灯の明かりだけが、夜の街を照らしている。
角を曲がると、そこに大きな旅館の建物が見えた。看板には堂々とした筆致で、こう書かれていた。
『あまねの湯』
深呼吸をひとつ、少年は息を整えてから、旅館の扉を勢いよく開け放った。
「あれっミヤ。帰ってきたの?」
扉の前では、きょとんとした少女が大きな布を担いでいた。
彼女は『菊』。肩までの長さの茶色の髪の、まだ幼そうな少女だ。彼女は少年、雅と共にここの旅館、あまねの湯で働いていた。
菊は、急に帰ってきたに慌てつつ、布を渡した。それに雅は荒い呼吸でつぶやく。
「──うめ、」
え? と菊はもう一枚の布で頬を拭きながら聞き返した。
「ウメさん!! ウメさんが帰ってきたって聞いて……!」
雅の顔は興奮しており、走ってきたせいでもあるのか、頬は薄く赤く染まっていた。そんな雅に、菊は「あぁ!」と嬉しそうに微笑む。
「お母さーん! ミヤが帰ってきたよー?」
奥の廊下へと叫ぶと、スラリとした桃色の着物を着た美しい女性がやってきた。梅である。
彼女は菊の母親で、つい昨日に人間の世話に出かけたばかりのはずだった。
しかし今日。
街に出かけた雅のもとに、梅があまねの湯に帰ってきたと噂が流れた。そのため、雅は急いで帰って来たのだ。
梅は雅と目が合うと「おかえり」とつぶやき、いつもの優しい笑顔を見せた。
「ウメさん」
雅はつぶやくと、履いている靴をそのまま脱ぎ捨て、一直線に梅の腕の中へ走っていった。
「……おかえり」
「うん。ミヤもね」
梅の胸あたりに埋めた声は明るい。雅は顔を上げると、梅の頬が少し赤く腫れているのに気がついた。
「その腫れ、またニンゲンに?」
「うん、今日の客にね。地獄行きだって言ったら一発殴られちゃったのよ」
雅の顔が青ざめていくのに対し、梅はからかうように笑った。
「心配しすぎよ! ねぇ、それより今日はミヤに土産を持ってきたの」
「土産?」
不思議そうに首を傾げると、梅は玄関で立っている菊に「連れてきて」と合図を送った。そしてまた優しく声をかける。
「ミヤ、最近ずっと一人でしょう? だからいい機会だと思って」
「……」
雅は気まずそうな顔になり、菊が走っていった廊下へと目を向けた。するとなんと、廊下から菊と誰かもう一人の声が聞こえてきたのだ。
(まさか)
雅の悪い予感は毎回当たるものだ。それに、気づいた時にはもう遅かった。菊ともう一人の「ニンゲン」は、あっという間に目の前に立っていたから。
「ミヤの初めてのお客様『佐久夜』よ」
(あぁ……これが、ニンゲンなんだ……)
目の前に少し微笑んで立っている少年。真っ黒な黒髪に、透き通った焦げ茶色の目。茶色のくせして、どこか琥珀のように透けて見える。
「よろしく。えっと……みや、び?」
そしてそう言う自信のある顔は、より人間味が増すのだった。人間の嬉しそうな声に対し、思わず喉から低い声が出る。
「僕、ニンゲンなんかと仲良くする気ないし。身の回りの世話とか、自分でしてよね」
「なっ──」
そう言って雅は間を押し抜け、奥の方へと駆けて行ってしまった。人間の佐久夜は驚いたように目を見開いたが、すぐ心配そうに雅の走って行った廊下へと目を向けた。
「ミヤったら!! まったく……お客様にする対応じゃないっての」
菊も相変わらず自分勝手な雅に、呆れてため息をついた。
雅はニンゲンの話を聞くとき、いつもこのような態度を取ってしまう。それに彼は、一度も人間の世話をしたことがない。
大の人間嫌いなのだ。
梅は、そんな雅に押されたあげく、きつい言葉を言われた佐久夜の側に寄る。
「ごめんなさいね、サクヤくん。ミヤったら、ニンゲンがちょっと苦手みたいで……」
「あっいえ。別に……平気です」
そう佐久夜はじっと黙っていたが、急に廊下へと走り出した。
「えっ、サクヤ!? なに急に走って……」
菊は慌てて手を伸ばしたが、遅かった。あっという間に、佐久夜は奥の廊下へと消えていってしまったのだ。
「も、もう……! 男子ってば勝手すぎ!」
菊はそう呆れつつも、何か面白いことになりそうだと、心の中では期待していた。
****
僕は、昔からニンゲンが嫌いだ。
そもそも、ウメさんを殴るような異世界人の世話なんか、自分から進んでするわけない。
そう頬を膨らませ、僕はいつも通り屋根の上に登り、寝そべった。
「もう亥の刻(午後十時)か……そろそろ、戻らないと──」
「おい、何してるんだ?」
「わっ!?」
慌てて急な声に起き上がると、隣には面白そうに笑う佐久夜の姿があった。さっきの人間だ。
僕は慌てて睨み返したが、なぜか目の前の佐久夜は笑顔で話しかけてきた。
「なんでさっき逃げたんだ? せっかく挨拶でもしようと思ったんだけどな」
「は、はぁ……?」
このニンゲン、誰が見ても明らかに一人でいたそうな僕に、気遣いってものがないの!?
どかどかと屋根まで登ってきて……
僕は頭の整理がつくと、わざと顔を背けてみせた。それに佐久夜は困ったようにシワを寄せたが、逆にずいっと顔を近づけてきた。
その時ふと香った匂いは、きっと桜だった。
「何、俺が嫌いなのか?」
そんなの分かってるくせに。よく聞くよな。
「ニンゲンはみんな……嫌いだし」
消えそうな声で呟くと、佐久夜は不思議そうに首を傾げた。純粋すぎる瞳を向けられるのは、好きじゃない。
「俺は死んだただの魂じゃないか。ある意味人間じゃない。何が嫌なんだ?」
その言葉に、無意識に僕の指先が動いた。恐る恐る顔を向け、改めて正面から佐久夜を見つめてみる。年は、自分と変わらないだろう。
そして自分とはまるで正反対な元気な声。無邪気そうな顔は、人間の特徴だ。それに、
「でもやっぱニンゲン臭い。無理」
そう言い放つと佐久夜は一瞬固まり、大きな声で信じられないと叫んだ。
「人間臭いってなんだ……!? 臭いって!?」
よほど臭いと言われたのが気に食わないのか、彼はわなわな震え始めた。
人間には煉獄者と違う特徴的な匂いがある。だけど僕はそれに慣れてるわけないし、臭いと思うのは仕方ない。
「じゃあ、俺は臭いまま梅さんや菊と会ってたのか!? 信じられない……なんでもっと早く言ってくれなかったんだ! おい! 聞いてるのか!?」
ギャーギャー……ガキじゃん。
いいや。無視しよ。
しかしいくら反応を見せなくても、彼の口は動きを止めなかった。
「ちょっとここの世界……なんだっけ、煉獄? に消臭スプレーってあるか? あったらぜひ貸して欲しいんだけど」
「……」
「というか初対面の人に臭いってお前、なかなかだな。人間界だと一発で嫌われるぞ」
「……」
「ん? なんだこれ……ってうわっ、虫いいいいい!?!? おい! ほんと消臭スプレー……じゃなかった殺虫剤っ!! みやっみややや!」
誰だよ、みややや。
「み、や、び」
呆れて言うと、佐久夜は一瞬安心したように微笑んだが、我に帰ったようにまた慌て始めた。
「じ、じゃあ雅。お前、虫いけるか? いけるなら早くこのぁあああっ!! 死ぬ! ん? もう死んでるのか。ってもう虫いっそお前の着物剥いで追っ払っていいか!?」
「ああぁ!! もうっ、うるさいなぁ!! 臭いからさっさと湯でも浸かってきてよ!!」
僕は耐えきれなくなって、思わず屋根から飛び降りた。
これだからニンゲンは……!
佐久夜は慌てて屋根の下を覗いたが、もうそこに僕の姿はない。
湯。それはこの旅館の名物、「あまねの湯」のこと。しかもその湯に浸かれば、もう二度と澄んだ川にも入れなくなるというほどの評判だ。
きっと人間の独特な匂いも、消し去ってくれるはずだ。
佐久夜はしばらく屋根の上で一人立ち尽くしていたが、いきなり口角を上げ呟いた。
「なら入らせてもらおうじゃないか、そのあまねの湯に」
そして。
「だけどその前に虫の戦いが……ってぁあああああああ!!!!」
****
その後、佐久夜はきちんと菊と梅によって無事回収されました。
雅:人間嫌いな少年(主人公)
佐久夜:雅が初めて世話する人間
菊:雅と共にあまねの湯で働く少女
梅:菊の母親、あまねの湯の支配人
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次回も、あまねの湯で皆様をお待ちしています。