15 誰も幸せにできない
混乱したまま、全身が震える。
何、一体何が起こった? 姐さんが、殺された……?
一方佐久夜は簪から手を離し、ため息を漏らした。こちらにはまだ気づいていない。
やばい。逃げないと。早く……早く!!!
頭では理解しているのに、体が全く動かない。
『怖い、殺される』
頭はその文字で詰まっていく。もしかしたら、梅さんもこんな気持ちだったかもしれない。
「……?」
佐久夜がこちらに顔を向けた。ゾクッと背筋が凍る。しかし目が合うと、佐久夜は驚いた顔をした。
「え、雅? なんでこんなところにいるんだ?」
「……」
その表情はいつもの佐久夜だった。何も変わらない。
「どうした? ……ん? 何でそんなに震えてるんだ?」
何も知らないかのように、スッとこちらに近づいて来た。血の匂いが、痛い。
「さ……」
声も、でない。
「……ん?」
しかし当の本人は何がなんだか分からない様子だ。
自分は一旦唾を飲み、震えながらも声を出した。正直、過呼吸になって死にそうだ。
「そっ、それ。サクヤが、やったの……?」
「それ?」
佐久夜は首を傾げたが、僕の視線の先に目をやり、全てを悟った。血のついた手、返り血。そして、もう息をしなくなった彼女。
自分のやったことがわかったのか、佐久夜は瞳を震わし、叫び声を上げた。
「ぁあああああああああああああああああああああああ!!!!!」
「……いっ!?」
キーンと僕の脳が悲鳴を上げる。佐久夜はわなわな震えだし、気が狂ったように血だらけの片手で自分の顔を覆った。
佐久夜の顔は、まだ生暖かい彼女の血で汚れていく。
「お、俺じゃない!! 俺じゃないんだ! 死にたくない……!!」
「さ、サクヤ」
半歩近づくと、怯えるように避けられた。ズキズキと心が痛む。
「サクヤ、とっとりあえず落ち着いて」
そんなこと言う僕も震えていたけど、そっと佐久夜の手を包み込んだ。すると佐久夜の呼吸も、だんだん落ち着いていった。
おかげで自分の呼吸も一緒に落ち着いていく。
「僕のお母さんも、殺したの?」
なるべく怖がられないよう、優しく話しかけたつもりだった。しかしそれに佐久夜はふるふると首を振った。
「梅さんの件は知らない。だけど今は……俺がやったかもしれない」
「やったかもしれないって、何」
「き、記憶が全くないんだ。朝手洗いに行こうと思って……部屋を出てから」
信じられない。簪を使って殺しているのも、梅さんの時と同じ気配なのもおかしい。
自分は今、どう頑張っても佐久夜が言い訳しているようにしか見えない。
「雅、本当に記憶がないんだ。信じてほしい」
「……分かってるよ」
「俺は絶対に人殺しなんてしない」
「うん……分かってるから」
「本当か? ならなんでそんなに怒って」
「だから、分かってるから! ちょっと頭の整理くらいさせてよ!!」
出すつもりもなかった焦りと怒りの声に、僕自身も慌てた。目の前の佐久夜もビクッと体を震わし、そっと口を閉ざしてしまう。
僕は慌てて謝罪した。
「あ……ご、ごめ」
「いや……大丈夫だ。大切な人が亡くなってるんだもんな」
そ……そうだ。そうだよ。
姐さんは死んだんだ。僕がもっと早くに助けに行けばよかったのに。
僕は……姐さんを幸せにできなかったんだ。
「少し黙る。ごめんな」
佐久夜はうつむいた。でも、僕はそれがなぜか頭にきてしまった。
「なんか……他人事にしてない?」
「…………」
問いかけたのに、佐久夜は顔を上げない。
僕もそんな小さなことに怒ってはいけないと、佐久夜に当たってはいけないと。頭では分かっていた。
「人が死んだのに。殺されたのに」
「…………」
「僕はこの目で見たよ。サクヤが姐さんを刺したの」
「……ごめん」
佐久夜は短く呟いた。この一瞬で全身の血液が頭に上る。
「ごめん」なんて言われたら、まるで目の前の佐久夜が「本当に」犯人に見えてしまうんだ。
「姐さんには幸せになって欲しかったんだ!! もちろん、梅さんにも!!」
姐さんはまだ誰とも愛し合えていない。僕も、まだ返事をできてない。
「あぁ、そうだな」
「そうだなって……ちゃんと話聞いてた?」
佐久夜は頷く。僕は思わず佐久夜の肩を強く押した。
「分かってないでしょ、絶対」
「……ごめん」
一瞬バランスを崩した佐久夜は怒る様子もなく、切なそうな瞳で見つめてきた。
そんな目で、見るな。
「謝ってほしいわけじゃなんだけど」
僕は鋭い目つきで佐久夜を睨んだ。しかし彼だって、ずっと黙ってるわけじゃない。
出されたのは怒りと悲しみが混ざった、今にも泣きそうな声。すごく、小さくて。
「じゃあ……なんて言ったら信じてくれるんだ」
「え?」
「本当に、記憶がないのに──」
そして佐久夜はその言葉を最後にし、勢いよく街へと走っていった。後ろ姿はどんどん遠くなっていく。
「ちょっと! サクヤ……!!」
追いかけようと手を伸ばしたが、手はまるで錘がついたかのように下がっていった。自分に追いかける資格はない。
やっと我に返ったのだ。
「僕、最低だ……」
止まることができなかった。この怒りは、「本当の犯人」に向けるべきものなのに。
真っ黒な空の下。煉獄に朝が来た。




