1 ヒトもどき-⑦
気づけばネルアの財布に仕舞われている金は紙切れではなく、金貨に。残金はたったの0.18ダラー。
格安のビジネスホテルの一部屋に足を着く。薄い壁をネルアは虚ろげに見ていた。
室内は価格に見合わないほど内装はボロく、壁には易々と亀裂が入っている。天井を見上げれば種類別のパイプが丸見えのまま沢山あり、パイプの隙間を強度がありそうな細く黒い柱が角張って入り交じっていた。
設備はまるでされてない部屋。当然エアコンや空気洗浄機はない。
木製のベッド。フレームは見れば分かるほどに腐食しており、交換期限はとっくに過ぎている。
扉表面にある破れたカーテンの向こう側には結露でビショビショになった窓ガラス。
ベッド横の向かい側の壁にはアンティークなホテルデスクが一つ。高さがあり、一般的な机と比べれば肘が置きにくく使い勝手が悪そうなデスクである。
デスクに仕舞われた椅子は錆びたパイプ椅子。シートが二、三箇所破れており、すぐにでも交換か修理が必要な椅子である。
ネルアは部屋を見渡し、ため息が零れる。確認する限り清掃はとてもじゃないが行き届いていない。
(机と椅子の拭き掃除はされている……机は古びているものだろうからニスで補修の手入れを)
再度、ネルアはため息を吐く。
こんな時にでも指摘が浮かぶ脳が今はとても腹立たしい。
苛立ちがありつつも、ネルアの胸には簡易的な安心感が今は勝っていた。一時的に酸性雨から凌げる屋根とベッドには気が休まる想いだけが瞬く間に押し寄せ始める。
ここに来るまでの立て続けに起きた悪い状況から逃げるように、漠然とした安堵に包まれてネルアはベッドに座った。
『汚いまま寝台に上がってはいけません。分かった?』
何度目か分からない母の教えがフラッシュバックのように頭を過ぎた。
「……風呂」
ネルアの体温は服に染み込んだ雨水によってどんどん下がり続けている。体調のためにも湯を浴びて就寝へと向かうことが最前の行為である。
いつものネルアならば迷いの状況自体生まれずに、最前へと行動しているだろう。
「疲れた」
ネルアは正直に風呂への工程を煩わしく感じている。
『お風呂は毎日必ず入って。時間は十五分以内。綺麗で清潔でいないと立派な大人にはなれません』
耳を塞いだ。咄嗟に意味もなく。
止まない母の言葉にじわじわとストレスは三半規管を刺激し、更なる吐き気が前面に出ようとしていた。
右手で掻き毟るほどの烈しい力で耳を押え、左手で気持ち悪さに堪えて口を抑える。
ネルアは今までの正しさとなる母の教えを訳も分からずに拒絶し始めていた。失望された裏付けとなる意義が纏まらないまま、冷や汗が身体中から沸き立つ。
なんのために自分を綺麗にするのか、こんな自分は綺麗になるのだろうか、それをすれば失望されないのだろうか、全部全部嘘かもしれないのに。
「ああああああああぁぁぁああぁぁぁああぁぁぁああ!」
ネルアの中の邪念は絶えず、つい叫びを口にする。
そのまま数分が経過し、風呂に入る気力がないことを理由に横になってベッドへ逃げた。
一時に任せたどうということのない行為であり、ネルアにとって言いつけという洗脳を破った行為。
たったそれだけのことに自分で破ってみたはいいものの、ネルアは胸を抉られるような辛さに駆られてしまう。
(言いつけに応えられない自分が……その根拠を生み出す選択をしてしまった自分が……)
面倒という嘘のない本心を優先したために生まれた感情。
罪悪感。
ネルアは自分なりのどこへ許しを請いているのか分かっていない。それにもかかわらずベッドへ頭を付け、深く深く下げる行為をしてしまう。
懺悔をする身体を許さないと侵食するように否定的な言葉が精神を刺激して離れない。
『クビ、失望、いらない、さよなら』
ネルアはそれらが言われた意図を理解しようと目を逸らさずに必死に考えた。考えて考えて理解しようと試みた。
落胆から自分の存在意義、自分は何者でどんな役割を担う人か、正しさによる自分の立ち位置の順列は何処か。何が正しく、何が良く、何が悪く、何がダメで、何が、オレが。
「正しいってなんですか……?」
小声で本気の疑問を口にする。
ネルアは生を受けて此の方、母の言いつけを破ったことがない。疑問に思うことがあろうと母の『正しさ』を信じ、従ってきた。
その正しさが時に面倒で周りが羨ましく妬ましく苦しさに苛まれたとしても、その欲望自体が罰だと感じて心を殺して生きてきた。
疑問があっても母、教師、上司など自分より上位として佇む人物の答えが詳細であり正解で、よすがになると思いながら。
「……あれ? オレの自我は何処?」
欲望を捨て、母の正しさに従ってきたネルアに何となく言い知れぬ漠然とした不安が押し寄せる。
思い返せばこれまでの人生、常に誰かにリードを繋がれたまま人格が存在してきた。
つまり、ネルアは寂しいという感情と向き合ったことがない。
「嫌だ、誰か」
人気なく心細いシンとした閑静によってネルアは押し潰されかけていた。
『寂しさ』というものを受け入れたくない、自覚したくない気持ちで目をギュッと瞑る。横になった姿勢で敷いてあるだけの薄いシーツを強く掴んだ。
分かち合いがないまま心が欠け、満たされない深海のような停止した時間が進む『寂しい』という気持ちが怖くて不安でたまらない。
それなのにネルアの頭では今まで繋がれていたリード自体が間違いだったのかと追想すれば怒りと嫉妬と矛盾に狂うのは時間の問題である。
「全部、正解と信じてきたというのに」
落ち着かず、勢いよくネルアは起き上がった。
身体はじっとしている暇があるなら行動を、と言わんばかりに貧乏ゆすりを始めている。
しかし、一向に脳は纏まる気配がない。
ネルアはどうしようもない気持ちで籠るように掛け布団を両手で掴み、座っている自分へと後ろから覆った。
自分が拒絶された事実に向き合おうとしても答えの出ないまま、ただ時間だけが進んでいく。
時計の針が一分ごとに進むカタンという長針の音。どんどん大きくなって耳から脳へと響き渡る。
カタンカタンカタン。
カタンカタンカタンカタンカタンカタンカタンカタンカタンカタンドクンカタンカタンカタンカタンカタンドクンドクンカタンカタンカタンカタンカタンカタンカタンカタンカタンカタンドクンドクンドクンドクンドクン。
時間が経つにつれ、どんどん早く感じてしまう針の音。その分数にネルアの鼓動は何倍にも膨れ上がり、呼吸は落ち着きを失っていた。
(嫌だ、苦しい、きつい、辛い、分からない分からない分からない分からない)
その悩みに終止符を打つかのようにチカチカと部屋を照らしていた電球の一つがフッと一瞬にして切れた。
消えた光。それを見て、ネルアの脳も一直線にハッとする。
「指令を、許可を」
導き出された答えは寂しさに負け、鎖を欲する想い。自分自身の道標となる繋がれるためのリード。それが欲しくてたまらない。
ネルアは自分自身の欲求の言葉の吐き方が分からず、具体的な言語化ができない。
(そういえばこの前は声を荒げた。どうしてああなったんだっけ)
差し迫った今、頭の整理ができずに昨夜を思い出すことができない。
無残に敷かれているベッドのシーツを右手で触る。冷んやりとした布は不安定な今、摩擦起こせばすぐに手に汗を握ってしまう。
「昔から素直で行動力があるところを褒められた。それが長所でオレを表せるところ……」
ネルアは考えることが苦手であること、その分行動力に振り切った性質の持ち主であることを自覚している。
考えるよりも素直な自分の直感に任せた行動力は薬のように良し悪しがある特徴だった。
ネルアは続けて自分の長所を呟き、脳内に無理矢理流し始める。
その言葉と共に優しいときの母の記憶を思い出しながら。
幼少期から流れ出る褒められた記憶の数々。ネルアに得意科目、苦手科目といった概念はない。全て努力して一番を勝ち取るものでそれ以外は無という教え。
どんな科目でも完璧にこなしてきた。それは図画工作でも同様。
(幼い頃、母上に見てほしくて公園で花冠を作ったっけ)
母にきっと似合う、ミスのない円満な母にはぴったり。五歳の頃、一度だけ公園に連れて来てもらったことを覚えている。それまで勉強への時間を割かないように遊具に触れたことや同い年の生徒と遊びに行ったりしたことはない。
それでも初めての大きな公園でネルアが真っ先に走ったのは遊具ではなくシロツメクサ。
母へ渡したい一心で花冠を作りたくて仕方ない想いが先走った。
二十本ほどのシロツメクサを時間をかけて厳選し、綺麗なものだけを集めていく。
選りすぐりのシロツメクサを手にして蔓を丸め、その中に別の蔓を通し、上手く等間隔になるように結び目を作り、補強しながら綺麗な円を整形していく。
ネルアは綺麗な直径を描いた輪を作った。
手は痛々しく切り傷という代償を負いながら花冠は完成した。この時、ネルアは痛みなど感じておらず早くプレゼントをしたくて日陰で休む母へと笑顔で急いだ。
ネルアの想いに応えるようにしゃがむ母。それに対し幼いネルアは背伸びをする。
褒め言葉を期待し、照れくささもありながらつま先に力を入れて背伸びをした。
そして母は一言だけネルアに与えてくれた。
『上手にできたわね』
古びたパイプ椅子に両足を乗せる。
敷かれたシーツを縦長に丸め、等間隔に縛って強度をあげて輪を作った。
複数のパイプの横を通る柱に感情のまま縄となったシーツを括りつける。顔の前で綺麗な直径を描いた雫型の輪を完成させた。