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1 ヒトもどき-⑤

 翌朝。

 日が上り、前日に自身が決めていた起床時間の五時間後が経ったとき、ネルアは目覚ましなしに起き上がる。

 あくびをする動作もなく、バチッと目を開ければすぐに体を起こし、窓から漏れ出す光を浴びる。朝日を受けて伸びをしながら存分に神経を活性化させていく。

 それが終わると壁に備え付けられている洗面器で顔を洗い、即座に歯を磨いていく。


『今日の天気は晴れのち雨。台風接近により、午後にかけて豪雨となるでしょう。お出かけの際は』


 薄く手の平に収まる携帯機器で天気予報を確認しながら繊細に歯を磨いていく。

 支度が終わり次第、ゴロゴロと時間を潰すことはせずに綺麗な制服に腕を通し、帽子を被って部屋を出る。

 この間わずか五分ほどであり、それほどまでに行動が早いのがネルアのいつもの決まりだった。

 

 昨日の報告も兼ねて上司のケシェニカを訪ねる。

 朝は深夜と段違いに人の行き来が多く、あらゆる区域の警官や部署違いの社員がいる。移動中、階段を下りている時に何やらざわめいた話し声が気になった。


「あんなにキレているの見たことないよ……」

「でもさ、もしかしたらおれの昇進に繋がるかも」

「さいてー。でもその気持ちもわかるー」


 何か大きな事件でもあったのだろうか、と道中の職員の声を無視してネルアは進む。

 自分の仕事が最優先とする急ぎ足は恐らく幼少期からの癖。

 しかし、その癖を今だけ取っ払うとしたら注意を行いたい。仕事中ならばある程度の私語は謹めと。階級や部署が違う人のため今は仕方なく口を(つぐ)んだ。


 ケシェニカの部屋だと主張する豪華な取手をした扉の前でネルアは立ち止まる。右手で綺麗な等間隔のノックを三回行った。

(……妙だ)

 返事がない。

 いつもなら入れの一言くらいある。壁掛けには部屋にいることが記載されているというのに数分待とうとも返事はなかった。

(確か今日は外部への出張もなかったはずでは?)

 脳を回したが報告が先という答えはブレることなく、ネルアは勢いよく扉を開けた。


 酷く怪訝な表情を浮かべるケシェニカの姿。

 正面には大型デスクを前に、背もたれの高い重厚感のある椅子に座っている。

 その顔はとても人を見る目ではないほどの怒りの目つき。

 (かたわ)らには同僚の警官の姿が二人。後ろの腰あたりで腕を組み、凛とした佇まいをしている。

 その二人も顔知りの何度か協力任務を行ったことはあるがプライベートの世間話などをする仲ではない。つまりは仕事上の他人。

 他人の二人も無言の圧で鋭い目をネルアへと向けている。妙な雰囲気にネルアは緊張感を覚えつつも、礼儀正しく扉を静かに閉めてケシェニカの方を向く。


「おはようございます。昨夜の報告があり、ケシェニカさんの元に──────────」


 バンッ、と机は大きく叩かれて音が響き渡る。

 ケシェニカは叩いた反動で地に足を鳴らし、立ち上がる。

 今日は一段と機嫌が悪いことが確か。ネルアは思わずゴクリと張り詰めた息を飲む。

 ケシェニカの一歩は威圧的に響くほどの力強さで、憤怒を模した三白眼でネルアへと近づいた。 

 ネルアは後ろで手を組み、ずしりと姿勢を整えたまま体制を崩すことはしない。

 しかし、綺麗な皺一つもない制服の胸元を無謀にも掴まれ、強引に体制を崩される。


「テメェは今を以てクビだ!!」


 至近距離での唾と大声。キンとするほどの爆音で鼓膜は今にも敗れそうな声量。

 その轟音にも似た音と相待って言葉を上手く理解できない。汗と共に目を見開き、きょとんとした表情をネルアは浮かべる。

「……は、はい?」

「聞こえなかったのか? クビだクビ。さっさとその制服を脱いで出ていけ」

 掴まれていた胸ぐらは地面に投げ棄てられる。それはポイとゴミを捨てるような日常的な動作だった。が、猛々しさが反映されてネルアは床に尻をつかざるを得ないほどの腕力だった。


「え、ええと……これは一体なんの処罰でしょうか? クビに至るまでのことなんてオレはしていません」


 ネルアはケシェニカに当然のように物申す。何に気に障ったかを確かめたい一心で声を上げた。

(昨日の失敗だろうか? けれどあれは()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 仕事が終わり、署へ帰宅する間に見つけた奇形。単なる奇形とて野放しにすることの方が許されないとネルアは判断した。

 昨夜の過ぎ去った事実を捩じ伏せるように更なる怒号がケシェニカから降りかかる。


「倫理も分からん奴はここにはいらん!!」

「だっ、だからその理由を聞き ───────」

「話すまでもなく分かれ。無残な発砲事例で通報。写真まで撮られておいて、テメェの姿だけがしっかりと映り拡散までされて……どうしてくれる?」


 唖然とすることしかできない。

 ネルアにとっては不確実性が極まるばかり。

(それの何がいけないのだろう……?)

 ネルアは自分の不遇についても報告の後と思い、疑問から目を背けて建言する。

「その件についてですが、昨夜奇形と思しき ─────────」

「奇形? その仕事はテメェの最優先事項でもなければ、いつも処理の仕方も悪く、はぁ……全く要領が悪すぎる。他にもだ。チームワーク皆無の独断行動。情報収集も恐喝のようでコミュニケーションの欠けらもない。配属された当初からテメェは」


 それからケシェニカは次々に過去の気に障った事例をネルアへぶつける。基準はケシェニカ本人。虐待を体現するような言葉は客観的に見ればミスにしてはかなり横暴なことばかり。

 チクチクとした言葉が数十分、ケシェニカから吐かれ続けられる中、ネルアはめげずに理由を述べて評価の撤回を行なった。


「行動に起こす時にもっと頭を使えんのか。テメェのせいでどれほどの損害がおれに出たと思っている」

「それらが気に障ったというなら今後改めます。ですが、オレは間違ったことは何一つ─────── 」


 ネルアの目の前が一瞬にして赤暗くなる。


 鈍い音と共に唐突な顔面への痛みがじわりと姿を見せる。


 反論を述べる口は上から覆い被さるように強く殴られた。頬はすぐに膨れ上がるほどに強い威力で世界がぐらりと二重になる。

 痛みから逃げるように顔を埋め、ネルアは防ぐ姿勢を床でとるが暴行は蹴りも加えられて更なる痛みが響いていく。八発目、九発目、十発目とその数が倍になるまで続けられる。

 何十発くらったか分からなくなったとき、口内は鉄の味で溢れて力が入らなくなっていた。最初に殴られた頬への打撲痕は既に青あざへと変わっている。

 ネルアを見てケシェニカは、こうされることは当然で常識という視線を向けて教育を行なっていく。

 ネルアの揺れ動く脳では反論、理由、あなたの正しさについて、国の正しさについてとグラグラと考えていた。

(教え、て、下さ)

 当然、声を出す暇は与えられない。出せたとしてもそれは(うな)りにしか聞こえない無様な(かす)れ声。ネルアは当に腰に力が入らず立てなくなっていた。

 言いつけられる拳で無意識へと脳が移行する中、二文字が浮かぶ。

 完璧。ネルアの痛みに溢れた脳でケシェニカがミスと判断した行為はあったのかもしれない。けれど、結果はいつも完璧だったはずでどんな内容の仕事でさえネルアは報告も調査も怠らず、この国へ忠誠を示してきた。

 それが人生と思ったから。

「はあ……連れて行け」

 ケシェニカは疲れた手首を振る。部下への短い命令を聴覚が判断した時、ネルアは最後のチャンスを諦めてはならないと喉を絞った。


「ま、待って下さ、い! なにも、何も……分かりません。こんなっ、こんな無理矢理は正しくありません! こんな秩序は許されないです!! 待っ」


 脳天に強い衝撃。

 ぐらりと視界が何十にも重なり、平衡感覚を失ったまま後ろへと伸びる。


 そのまま起き上がることすら許されなくなった体は同僚だった警官達に雑に掴まれ、部屋を投げ出された。


 それからは流れるように時間は過ぎていった。

 体から痺れが取れ、動ける程度の痛みとなった時には背を突き飛ばされて外にいる。凍った地面に冷気が漂う外である。

 放り出せされるまま少ない荷物や契約書やらの破棄、警官としての全てを剥がされて立ち尽くしている。

 当たり前に理解が追いつかない。


(意識はようやくはっきりしてきたというのに……)


 ネルアはケシェニカからの暴論を思い返す。ミスの基準やその理由、それらが成り立つ正解など全てを考えてみたが点が結びつかない。

 じっと立ち尽くし、答えの出ない悩みによってぐるぐると頭がショートしかけた時、気づいた空は曇を帯びた橙色の夕方となっていた。部署を追い出されたネルアは熟考しても目を見開くことしかできない。

 殴られた腹や腕にできた痣を心許(こころもと)なく長袖のシャツで隠す。頬は手持ちの白く四角い大きな絆創膏で応急処置を施した。

 問題放棄は嫌いで知恵を何時何時(いつなんどき)も逃がさないことがネルアの日常だった。その日常を剥奪された今、爆発的な想いが無言で震える眼球と共に脳を駆け巡る。分からない分からない分からない教えてくれ。

 教えを乞うとき、大抵はケシェニカの言葉に従ってきた。この国の、世界の忠義を胸に敬礼を示しながら。警官としての権限を持つ前は母が正しき作法から生き方を『教え』として提示してくれた。


「命令……」


 命令と言ってもその結果は今更と言っていいほど掘り返されたミス。それほどまでのミスだったのだろうかと、どうにも苦悩してしまう。

 当然に思う事実として、ネルアのこれまではミスとされて今のように罰で追い出されているというのに他社員の陰口や遅刻は何故許されているのかが分からなかった。


「……オレが正しいはずじゃないのですか?」


 見知った街がどうにも色褪せて見える。

 どこへ行こうと考えても帰るための場所などない。手元にあるのはこれからどこへ行けばいいのだろうという(わび)しさのみ。

「……家」

 一番合理的と考えていた暮らしが今となってはこれだ。ネルアは悔やみ、唇を噛む。居場所をなくし、ただの浮浪者でしかない自分の惨めさに涙が出そうになった。

 ネルアは正直に救いを欲した。本来の考えでは救いは自分で掴むもの。今までは信念を通した行動のみで進んできた。しかし、ぼんやりと安全が欲しくてたまらないのが種族的本能である。

 安易な救いを求めた結果、気づいたときには電話をかけていた。

 かけた先は母。いつも満点を取ったとき優しくしてくれた。ルールをルールとして守っていたときに頭を撫でられ、必要とされてきた過去がある。

(警官になれたときだってとても誇らしげに見てくれた)

 それが嬉しくて優しい母がこちらから見ても誇らしかったと実感している。母があらゆる救いや金銭に対して手を伸ばしているとき、自分なりの手助けをネルアはしてみせた。

(だからきっと、オレにも手を差し伸べてくれる)



「失望した。もういらない、さようなら」



 その声は何度も百点、一位を取ってくれていたときに撫でてくれた母の声。聞いた事のないほどため息混じりの呆れ声である。

 ネルアは身構えたまま声が出ない。

 返答をすることなくブツリと絶望を具現化した音が鳴る。ツーツーという音で無条件に気楽に会話の幕は閉じられた。


(ぇ…………?)


 その後、感情的なまま何度も何度も電話をかけたが繋がることは一度もなかった。

(失望された? どうして?)

 ケシェニカに加え母から向けられた苦しい感情。自分が何故責められているかがネルアは分からない。

 血液中のエネルギー源が損なわれ始めたのか脳は食へと切り替わる。

 空腹感。それを大きく示すように音は腹部から鳴る。

(そういえば今日は何も食べていない)

 なんでもいい。食欲さえも今はうるさいとネルアは思った。余計な欲が消え失せるのならどんな食べ物でもいい。とにかく今は食を口に入れることを望んだ。

 欲望にまかせた時、足は近くのパン屋に踏み入れていた。

「5ダラーです」

 フォカッチャと飲料水。特に理由はない。 

 ネルアは収まることのない空腹のためにも、急いだ形でカードを提示する。


(カードは便利で使った分の記載も勝手にしてくれる。貯金額はもう(じき)70万ダラーを超えるし順調だ)

 いつでも生計への準備は怠らないのがネルアの習慣で趣味だった。

(……貯金を崩してでも何処かホテルを探そう。そしたら実家に向かって、家族と話し合いを)  

 ネルアの実家は都内から少し離れたところに位置する住宅街のひとつ。しかし、ネルア自身で所持している車はない。どこかでレンタカーを借りて、夜には着くだろう考えた。


「あの~お客さん? 残金が0ですよ?」


 髪を後ろで結んでいる好青年の店員。眉をひそめながら鼻にかかる笑い口調でこちらに声を向ける。

 爽やかな見た目とは裏腹に目は上からの態度。言うなれば簡単に浮浪者を馬鹿にするような眼差し。手のひらで『現金は?』と上下するようにヒラヒラと示し、ネルアを煽り立てている。


「そ、そんなわけありません! もう一度確認を……」

 必然的なほどネルアは慌てた。

(口座を知っている人物? そんなの母上くらい……)

 携帯機器を取り出し、金融詐欺を疑って素早いフリック入力で調べる。手口らしき通知は一切なかった。

「いくら確認してもゼロですよ~。ったく、盗みを犯す前に帰った帰った」

 邪魔だと払われるようにひらりと手を振り、定員は横目にネルアを見下した。


 ネルアは焦りを帯びたまま小さな擦り切れた息を吐く。結局、店員からは追い出され、店はシャッターを下ろして営業を終えた。


「……痛っ」


 白い絆創膏のガーゼ部分に霰混じりの雨が流れ、ケシェニカに負わせられた傷口へ無垢に染みる。何の調達もすることなく、パン屋を出ると外は音を立てた大雨の嵐。日は落ちかけ、雨の量は度を超えて増えていく。

 雨と霰に打たれながら次なる店を求め、ネルアは浮浪する。手で雨から目元を守るように(かざ)し、金銭について考えていた。

 母への仕送りは毎月。額は2100ダラー。怠ったことは一度もない。それが普通で正しく、渡せばいつも『ありがとう』を貰えたから。

 良い記憶のみが脳へと流れ込む。

 母が家計の破綻をさせてくるなんてことは考えられない事例であった。


「ち、違いますよ……これは、そうだ、何かあったんだ。そうに違いない」


 だとしたら早く実家へ向かわなければ。嫌な想像を振り払おうと、無理矢理にでもそう考えようとする。

 しかし、損なわれる欲求と疑問は一切黙っていない。


───────── オレは拒絶された?

───────── 今までの承認や尊重、正しき愛は?

 

 電話を切られた絶望音がフラッシュバックで脳に反芻する。

(帰った方がいい……ぜ、絶対何かあったんだ)

 考えとは裏腹に奥底で沸き立つ帰属意識の低下。

 帰ることへの恐怖。自分が迷惑な存在だったのか、まるで捨てられたことをネルアは当然に理解したくない。


 もう次から次へと勘弁してくれと熱くなる目元を両手で押さえる。

 ネルアは黙って食を諦め、豪雨に打たれ続けた。

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