3 ハッピーバースデー-③
昼休憩。
食事を済ませたネルアは二階のエレベーターを訪れた。
「エレベーターの修理も自分達でやるんですね」
エレベーターの扉は開かれている。そしてその手前には堕落防止柵が張ってあった。
エレベーターの大きさはシングルサイズのベッドが余裕で入る広さのものである。
その大きさの人が乗る部分であるカゴは一階にいた。
カゴは見て分かる通り硬い。だから二階からとはいえ転落すればただでは済まない。そのための堕落防止柵が広げられていた。
が、ネルアはその柵を軽々越えている。壁に手をつき、下を覗き込むように彼を見ていた。
「外には頼めねェからな」
レヴィが返事をする。その声は反響しながらネルアの耳へと伝わった。
レヴィは大きなカゴの上で胡座で座っている。隣には自立式の小さなライトが光り、手元を照らしていた。
レヴィは工具を手に取り、修理を進めている最中だった。
ネルアが壁から手を離し、その手を顎に添える。
(外部に頼めない理由は──────────)
奇形専門病院だから。……だろう。
ネルアはそう推測する。当たり前の事実として奇形は世界に存在することが許されていない。そしてこのアリゾレッド連邦では奇形は捕獲対象であるとして定められている。
つまり、少しでも情報が漏れてしまえばこのハーオス病院は一瞬で国に壊される可能性が高いのである。
「それで? どうした。何か用でも?」
レヴィが手を動かしながら問う。
「そうでした!」
返事と共にネルアは息を吸う。ただ息を吸うのではない。腹いっぱいに酸素をこれでもかと取り込んだ。
それは気持ちが昂り、声へ気合を宿らせるための呼吸である。
「あ、意気込む前に言うが──────────」
「なっ、はっ、はぃ!?」
ネルアの吐き出されそうになった声と二酸化炭素が止まる。急ブレーキをかけた声は驚きで裏返ってしまった。
「頬、付いてるぞ」
レヴィはネルアに気づかせるために自身の左頬を人差し指で示す。
ネルアの頬には直径二センチほどのカスタードクリームがついていた。それは昼に食したクリームパンの残骸である。
ネルアはハッとする。晒していた失態を手の甲でゴシゴシと拭き取る。
「し、失礼しました!」
礼儀を欠いたことへ堂々と発言する。
けれどネルアの耳は赤く恥じらいを帯びていた。
浮かれてクリームパンを早食いし、るんるん気分で頬の残骸に気づかないまま柵を越えたのだ。礼儀を重んじるネルアにとって当然の赤みである。
「コホンッ!」
ネルアが咳払いをする。グーの手を口元に置いたポーズで。それは話を戻すための合図である。
ネルアは切り替えた。その表情には恥じらいなどはなく楽しさに満ち溢れている。
「レヴィさん!! BMのⅣは見ましたか!? レヴィさん!」
BMとはダークファンタジー映画『BLOODY MAGIC』シリーズのことだ。
物語には人間から魔族、精霊、神などあらゆる種族が登場する。その中の魔族の欲望による衝突は凄まじいものだった。衝突はやがて復讐、あらゆる事件を引き起こす。メインキャラクターはそんな問題を解決していくアクションミステリー作品である。
BMにはノズキというキャラクターが登場する。ネルアの推しである。最推しである。
ノズキとは男らしく大らかなキャラクターだ。加えて正義感がありつつ誠実な性格の持ち主である。
そんなキャラクターにネルアは一瞬で憧れた。目は無意識にノズキを捉えて理想となる。
そしてそのノズキが最も活躍するのがⅣシリーズ目だった。
前にネルアはモニター室にいるレヴィを訪れた。その際、透過ディスプレイが見えた。そこに上映されていた『BLOODY MAGIC』をネルアは見逃さなかった。
ネルアはすぐにレヴィに問い詰める。上司に当たる存在にも関わらず『BMはどこまで見ましたか!?』『好きなシーンはどこですか!? あのシーンですよね! 分かります!』などと呪文による布教をした。
『あー、まだ三作目までしか』
その時のレヴィはそう答えた。
次の瞬間、ネルアが前のめりになる。そして元気な口が開かれる。
その日は更なる布教が始まった。
そして現在。
数日経った今でもネルアのBM欲は収まっていない。作品についての感想が知りたい、布教したい、推しについて語りたい、などと想いは熱く燃えている。
ネルアは目をキラキラと輝かせていた。その瞳でレヴィの返事をワクワクしながら待っている。
レヴィの口からボソリと言葉が呟かれる。
しかし、ネルアには聞き取れない。
「……レヴィさん? 聞いてますか? おーい───────」
「はぁ…………」
──────────?
レヴィの口から大きなため息が発せられる。
その感傷的な息は辺りに溶けた。
レヴィの首がゆっくりとネルアへ向く。
「見た。さっきからそう言っているであろう僕は」
僕?
ネルアは違和を感じた。
先程の『どうした』と発言した時のレヴィの声色とは明らかに違う。
ネルアは恐る恐る覗き込む。
そこには凛とした眼差しがあった。
声もレヴィの時よりもほんの少しだけ高い、気がする。今の彼の口角は下がったまま劈くような表情だった。
ネルアは直感する。
今目を合わせているのはレヴィではない。
けれど……
(どこか似ている。レヴィさんではないと分かるのに雰囲気から醸し出されている質は同じように感じる)
ネルアには鋭い直感力があった。
しかし、ロジックはない。
理屈では説明ができないものの感覚的に『そうだ』と思ってしまった。
レヴィは視線を自身の手元へと移す。
そして右側の側頭部を軽く叩いた。
「そう突っかかるな。この前の僕は『生前のうちに見ていたかった』なんて絶賛していたじゃないか」
レヴィの低い声が話を投げる。自分自身に。
「ああ、言った。けれど何故それを心臓に言う必要がある? 僕は無駄で無意味な会話は嫌いだ」
レヴィではないレヴィが話す。自分自身に。
低めの男性らしい声とほんの少し違う声色は会話を成立させた。
ネルアの頬にはじわりと汗が流れ出ていた。
(まただ)
彼だけの会話、独り言と言えばそう見える。
ネルアはその独り会話に入る隙を窺っていた。
「あ、あのー……レヴィさん?」
ネルアが少し気まずそうにレヴィを呼ぶ。
「んー? どうした」
彼だ。
ネルアの上司であり、利害関係が一致し、とある約束を聞き入れてくれた彼。
落ち着いた声色に情緒、そして謎めいた微笑み。レヴィだという事実にネルアは何故だかホッとした。
「レヴィさんって、その……」
ネルアがどう言葉を切り出そうか迷った。
「解離性同一性障害なんですか?」
ネルアはいついかなる時も正直である。
だから聞きたかったことを正直に聞いた。この数日間で一番気になっていたことだった。
ネルアが自身の脳から解離性同一性障害について引っ張り出す。
解離性同一性障害とは多重人格のことである。一人の人間の中に全く別の人格が複数存在する症状のことだ。
本来脳にある、意識、記憶、感情、思考は一つに纏まっている。しかし、何かしらの原因でそれらの纏まりが崩れた時、自分自身の統制が上手くできなくなってしまう。
そして統制ができないといった異常から交代人格が生まれることがある。交代人格は元あった人格とは全く異なる性格や趣味嗜好を持った存在なことが多い。
そんなことをネルアが思い出す。するとレヴィがネルアを向き、目を合わせた。
「正解。と言いたいところだが少しだけ違う」
レヴィの答えをネルアは純粋に受け取る。その言葉でネルアの脳は動き、考えを始める。
「少しだけ?」
「ああ」
けれどネルアにはどこがどう違うのか分からなかった。
レヴィは修理を続けながら答えた。
「俺はこの症状を『結合双生人格障害』と呼んでいる」
ネルアが首を傾げる。それは聞いたことのない病だったから。
ネルアは専門家ではないにしろ一般的な知識は持ち合わせている。それでもネルアの脳には『?』が無数に浮かんでいた。
「具体的にどの辺りが解離性同一性障害と違うのですか?」
ネルアは引き下がることなく話に食い付く。
「んー、そうだなァ」
レヴィは続けた。
解離性同一性障害には二パターンある。
一つは生み出されるタイプ。
もう一つは分かれるタイプ。
一つ目の生み出されるタイプ。それは交代人格が新たな存在として生まれるパターンである。
人格が一つずつ増えて二つ三つとプラスされていく物と考えると分かりやすい。
元々あった人格を主人格と考える。
しかし、纏まりの異常により新たな別の人格が生まれたとする。
すると主人格:1、別人格:1という個々のものとして見えてくるだろう。
これが生み出されるタイプである。
二つ目の分かれるタイプ。それは元々あった主人格が二つに分裂するタイプである。
人格が引き算によって二つ三つと分かれるパターンだ。
仮に元あった人格が善と悪の感情で分かれたとする。
すると善人格:0.5、悪人格:0.5と見えてくる。
数値に表せば文字通りの分かれるタイプとなる。
「レヴィさんの場合はどちらに近いですか?」
「俺の症状は二つ目に近い」
レヴィの人格は何と何で分かれたのだろうか。
レヴィの人格は二人だけである。
俺と僕だ。
レヴィが自身の頭を左人差し指で示す。
「確かに俺のは引き算で分かれるタイプだ。けれどこの脳には
俺:1、僕:1で存在している」
ネルアは必死に脳を回した。気になった疑問を放って置けない性格は頭の回転を加速させていく。
(分かれているのにも関わらず互いに個々で存在している……)
そしてネルアの中で一つの結論が導き出された。
「つまりどちらも主人格に当たると?」
「正解」
レヴィは自身に主人格が二つあると話した。そしてネルアはレヴィの言った病名『結合双生人格障害』という言葉を思い出す。
(名前から結合双生児が連想できるが……)
結合双生児とは体の一部が結合している双子のことである。その双子は誕生の際にタイミングの遅れによって一部がくっついた状態でこの世に生まれ出る。
(つまり、結合したのが身体ではなく人格のパターン? そして初めから2あったのが1:1で分かれた?)
ネルアの中で考えがどんどん答えに辿り着いていく。
「レヴィさんは双子だったんですか?」
「いぃや」
(違うのか……)
「それじゃあ死に別れた血縁の兄弟の人格がレヴィさんの脳に寄生した、とか?」
「違うが面白い考えだ」
ネルアが顎に手を添え、目を細める。
行き詰まった。
頑張って自分なりに脳を回すが隅々まで理解することができない。
「そんなに俺の病を解明したいか?」
「今放っておいたら気になって不眠症の薬を処方する羽目になります」
レヴィが手に持っていた工具を工具箱へ戻す。
エレベーターの修理が完了した。
レヴィは側にあるライトの電源を切る。そして工具箱とライト、畳まれたスタンドをあるべき場所へ転移させた。レヴィは立ち上がる。
「そもそもレヴィさんは隠し事が多いんです」
「それはもう趣味みたいなものだ」
ネルアは口に力を込める。そしてじとーっとレヴィを見つめた。
「まぁ、それなら解明してから終わらんとな」
ネルアの隣にレヴィが現れた。
空間転移による移動は一瞬である。