2 ハーオス病院-①
ネルアはカルテに目を通す。
そんなものはどうでもよかった。
黙読によって脳は覚め始める。ようやく忘我の状態から現実へと引き戻さていた。しかし疑問は多い。
浮遊感のある夢の中にいた気分で記憶は曖昧である。
ネルアは首元を覆う医療用のサポーターを摩った。夢ではない。あまりにも明確でない現実が時間を超えて今があるようだった。
眉をひそめつつ、目の前の院長と目を合わせる。
「レヴィとは? その人物がオレに何をした」
院長は肩をびくりと震わせた。大きな目玉を持つその顔は動揺によって、きょろきょろと落ち着きがない。
「レ、レヴィはここの副院長で……その、キミに何をしたかなんてボクは知らないというか、その、ええと……」
彼はネルアからできるだけ目線を逸らして話した。
院長の表情は不自然なこわばりが出るほどに歪んでいる。加えて徐々に小さくなる自信のない声。青い重めの前髪を持つ彼は今この時だけは視界をその髪で隠してしまいたいと願っている。
それほどまでに人間であるネルアを怖がっていた。
ネルアは大きなため息を吐く。
院長の精神を必要以上に畳み掛けるかの呆れた息。
再度院長は驚きで身を震わす。すぐに目のふちからは緊張と焦りによって涙がこぼれそうだった。
当然、ネルアにとって臆病な彼へ配慮の心などさらさらない。
ネルアは院長を顔で判断した。
起きてすぐ彼と目を合わせた瞬間の顔はまだマシだった。怖がる今の顔は引き攣り、不自然なシワや変な皮膚の凹凸が見られる。
結果、院長へ少しばかりの『生理的拒否』という感情が生まれてしまった。
ネルアは院長に無言でカルテを渡す。
受け取った院長はそのカルテを即座に抱きしめた。彼は足を閉じ、無駄な力で身体を強ばらせて下を向く。
ネルアはゆっくりと身体を動かした。関節からポキポキと音を鳴らし、地面へ足を落とす。用意されているスリッパに裸足を通し、点滴が吊るされたスタンドを片手に持った。
「えっ、どこへ行く気? まだ安静にしていた方がいいと思うけど……」
「そのレヴィとやらの元に。正直オレは何故生きているのかが疑問です」
ネルアの口調は普段の誠実を表す口調へと変化した。理由は彼を警戒する相手でもないと判断したためである。
ネルアはその場で足を動かし、歩いてみた。
身体には異変も痛みもない。何不自由なく動かせて、視覚や聴覚にも異常は感じられなかった。
「なっ、なら、点滴は外していこう。今、エレベーターが故障中で……階段での上り下りになると思うから」
数分の沈黙が流れた。ネルアは高圧的な目を彼へ向けたまま立ち止まる。院長はその沈黙が何十分にも感じるほどソワソワしてしまう。
ネルアは言葉に甘え、再びベッドへ腰を下ろした。
無言で針とチューブに繋がれた右手首を差し出す。
院長は震えた手つきでネルアの腕を持った。音を立てながら巻かれたサポーターを外し、小さな針を抜いていく。
プツリと血が出かけている箇所にすぐさま注射用の保護パッドを貼り付ける。血液は簡易的に流れを止めた。
自身の右手が自由になったところでネルアは立ち上がる。
「えっと、その……レヴィなら多分、扉を出て廊下を進んだ先にある右の階段を降りて、そのあとすぐに見えるモニター室にいると思うから」
院長は終始ネルアという人間を怯えていた。説明も目をぎゅっと閉じたまま扉を指差している。
ネルアは口頭による院内の地図を受け取ったところですぐに部屋を出た。
病院とは思えないほど黒で統一された壁と床が長く続く。
左側には歪に配置された窓が複数ある。縦長い窓、天井付近に横長く配置された窓、足元には取っ手は大きいが小さめの両開きの窓など。あらゆる窓が不規則に並んでいた。
ネルアは一番近い窓から外を覗いてみる。
見えるのは曇り空。そして枝に雪が積もった森林。木々に囲まれていることから、都市部からは離れた山奥ということが推測される。
木の高さからしてここが一階なことも確認できた。
暖房が効いている室内では薄い患者服だけでも暖かい。
右側には連なる病室がある。個室の病室から四人部屋の一般病室が並んでいた。
開いている扉からはチラホラと奇形の病人がベッドに横たわっているのが見える。人間でいう皮膚の部分が全て脳のようなグニグニとした桃色で覆われ、衰えた奇形が一名。異臭を放つミイラのような全身を包帯に巻かれた酷い状態の奇形がまた一名。それぞれの個室で治療を受けているようだ。
(……あれは何だ?)
ネルアは立ち止まり、天井へと目を細めてみた。
監視カメラである。
辺りが黒を基調としているせいで分かりにくいが複数配置してある。丸型でドーム型のカメラが廊下にはもちろん、個室にも探せば至るところにあった。
ネルアはさらに目を凝らす。カメラ内のレンズを集中して見てみた。が、撮影している方向がとても分かりにくい。
(これじゃ死角も見つけにくいじゃないか)
カメラは設置も含めて角度計算が的確であった。さらにはレンズの方向も読めないとなれば死角はないと考えたがよい。
(まるで閉鎖病棟のようだ)
しかしネルアはそんなことを気にせず、堂々と一歩を出してモニター室を目指す。
「ひ、ヒェッ! 人間!? なんでここに……嫌、こ、こころ、ころ、殺さないでっ」
ネルアは開いた扉を隔て、一名の奇形と目を合わせた。
左目部分から片腕が生えた奇形である。右腕は正常に生え、掛け布団をぎゅっと握りしめている。しかしもう片腕は首後ろから生え、後頭部を貫通する形で左目の位置からドロリと手が動いていた。
奇形はネルアを見た途端、一気に恐怖心を感じたのか右目は涙腺が壊れ、ガクガクと震えている。
ネルアは気にせず、追い討ちをかけるように警戒を兼ねてガンを飛ばした。
奇形はよりバタバタと左目元で小さな腕を荒れ狂わせ、涙に似た手汗を滴らせた。
奇形は即座に布団の中へと潜る。こもった空気の中で過呼吸の声を発していた。
「い、いやだ……殺さないで、ください。人間、嫌い。人外も嫌い……ワタシをねっ、燃料にしないで、ください、ください」
小さな暗闇での懇願をしている。
ネルアは顔色一つ変えずにその場を立ち去った。
そして無言で頷く。
(そうだ、これが奇形だ)
奇形らしい奇形。自分が今まで見て知り得てきた奇形の概念がそこにはあった。その事実に安堵しつつ、前へと進む。
病院内で確認できた奇形は少数だった。しかし、ここまで奇形が一箇所に集まっていることが国に知れたら一瞬で餌食となるだろう。
(これは報告した方がよいだろうか)
報告すれば国は動き、処理するだろう。
けれどネルアの中で迷いが生じていた。
(……そもそも奇形は悪なのだろうか)
その考えに答えは出ない。理由は一つ。奇形については外見のみしか知らないからだ。
今は捕えることも、それらの行いが正しいという根拠もない。
グルグルと巡る脳の中で先ほどの怖がる奇形の一言が気になった。
『燃料』。確かに警官の頃は捕らえた奇形は軍、上層部に引き渡していた。その後の行方や理由は不明である。
(倫理的な側面から批判がないためだろう?)
それ以外の理由をネルアは思いつかない。
階段前に着く。電灯によって明るく照らされた上り階段、暗く陽当たりのない下り階段がある。
院長の言葉を思い出し、ネルアは階段を下った。
先には一つの扉がある。
『関係者以外立ち入り禁止』と書かれた紙が貼られていた。
ネルアはそれを無視して取っ手を捻る。
鍵はかかっていない。
キィと音を鳴らしながら扉を開いた。