2.ど田舎の人魚
ガタン、ゴトンーー。
ガタン、ゴトンーー。
足の裏から規則的に響いてくる軌道の音。何分かに一回はシューッという煙を吐く音も聞こえてくる。
JR土居中線。
単線一両編成ディーゼル駆動、非電化のエンジン気動車でありワンマン列車である田舎の在来線だ。深刻な赤字路線で、客が2桁の人数以上乗っているのを葵も見たことがない。ウワサによると株主の追及を避けるためにJRのホームページからもこっそり削除された幻の路線らしい。
清水 葵は、朝の日光が照らす車内にひとり座っていた。今日は、剛と出会って失神させられた金曜日から週末の土日を挟んだ翌月曜日。
『え~。次は~。過疎~。過疎駅でぇ、ございますぅ~。お降りの方はお忘れ物などございませぬようお気をつけください』
車内には通学中の葵のほかに山へ柴刈りにでも行くのかおじいさんと、川へ洗濯に行くのであろうおばあさんと、それに加えて土居中高校の生徒もちらりほらりと乗っている。
県が運営する公共バスもあり、ちょうど葵の家と学校までの間を走っているが、葵は使わない。1時間に2本というその本数の少なさからではなく、電車より割安なバスは利用客も相対的に多いためである。葵は少しでも人気のない空間にいることを選びたかった。
前にテレビのニュースで都会の満員電車についての特集があり、県内から出たことのない葵はそのラッシュアワーの光景を見ただけで思わず総毛立ったことがある。鋼鉄の箱のような車内に乗客がすし詰めのぎゅうぎゅう詰めになっていた。文字通り押し寿司に詰められる酢飯のようだった。
そんな状態をいいことに、逃げられない女性に対して痴漢行為におよぶ輩もいるとか…おぞましい。いや、おぞましすぎる。もし自分がそんな狼藉を働かれたら、即その場で抗議の代わりに手首をカッターナイフでガシガシとやっていてもおかしくないだろう。
都会の人間はこれが当たり前の社会人の義務、といったような顔で毎日毎日そのような絶望発地獄行きの監獄列車に乗って、通勤通学に明け暮れているらしい。頭がどうかしてるんじゃなかろうか。
葵は、子供の頃から人見知り界を背負って立つ期待の星であり引きこもり業界からも熱視線をおくられるような超新星、つまり見知らぬ人間との接触を極端に恐れる女の子だった。いまこの瞬間も、乗客はもちろん運転士からも最も離れた最後部の端っこの席に座っている。
葵と同じ車両に乗る土居中高校の生徒たちは友人同士隣り合って座り、とりとめもない会話を交わしている。校内の有名人である葵を知らない土居中高生はいないが、当の葵が「話しかけんな」というオーラを放っているため近寄ってくる者は居ない。美少女である葵に、特に男子生徒の中にはチラチラと興味深げな視線を送ってくる者もいるが、もちろん葵は一顧だにしない。
もし葵が少しでも優しい顔を見せようものなら彼等は制服のネクタイを直しつつ、すっくと立ち上がって「やあ、ぼくはキレイな男子高校生」とでも言いたげな作り笑顔で忍び寄ってくるだろう。その場合葵はこのローカル線をぶらり途中下車することを余儀なくされ、同じ車両が終点まで行ってから往復して始点まで戻ってから更にトンボ返りしてくるのをもう1往復、計2往復かっきり1時間30分待たねばならず、遅刻の憂き目に遭うことは請け合いだからだ。
葵は母親と理子と優以外にまるで知己を持たない女の子であり、それでそれなりに暮らしやすかったし、そのままの人生が続いていってもまぁ、それでもよかった。
…3日前までは。
『え~。次は~。限界集落~。限界集落駅でぇ、ございますぅ~。お降りの方はお忘れ物などございませぬようお気をつけください』
車内は、田舎の朝らしい静謐かつ清浄な空気で満ちている。ごく静かな話し声が聞こえてくるだけだ。葵にとっては、とっても心地が良い空間だ。
しかし電車が進み土居中高校への距離が近づいてくると、葵は思い出すまいとしても否応無しに、3日前の出来事について思いを馳せざるを得ない。
ーーいったいなんだったのか、アレは…。
葵は、理子先輩とあの変人コーチが繰り広げた行為をバックプレイ…じゃなくて、行為をプレイバックする。つまり理子のあとに自分もヤラれてしまったあの、なんというか言葉では言い表せないアレ。自分が前後不覚になったあとに恐らく優もヤラれてしまったであろうアレ。
この3日間、葵は合計で4時間くらいしか寝れていない。寝るために寝床であるふかふかダブルベッドに横たわった瞬間、剛に味合わされた快感と、その生まれて初めての官能に自分が晒してしまった醜悪で酸鼻極まるあの痴態、あまつさえそれを腹心の後輩でなおかつ自分を尊敬しきっているはずの優に一部始終、すべてあますところなく見られていたというあるまじき失態を思い出して瞬間的に頭がフットーして2秒で跳ね起きてしまっていたからだ。
寝ようとするとあの快感が思い起こされてカッと目が覚めて入眠困難、少しウトウトしたと思ったら夢でクワガタと化した剛が登場して跳ね起きる中途覚醒、常に脇腹のあたりを指で揉みこまれているような感覚が残っておりぐっすり眠れず熟眠障害、そして明け方太陽が上ると日光よりも熱いあの眼差しを思い出してしまい早朝覚醒、と弱冠17歳にして不眠症の4大類型を総ナメにしてしまっている。
しかし、これまた不思議なことに寝不足のはずなのになぜかカラダは軽かった。頭も澄み渡ってシャッキリポンとしている。どう考えてもあのコーチがやらかしたナニかが関係しているとしか思えない。今日電車に乗り込むときにもジャンプして乗ってしまった。車内に同級生がちらほらいることを忘れていたため、やったあと激しく後悔したが。
これからとんでもなく人生が変わっていきそうな予感がある…。
自分のこの胸の疼きがなんなのか、わからない。多分、ワクワクしているのだ。水泳というスポーツに新たな気持ちで向き合え、という神様のお告げなのだろうか。カラダの軽さ以外になにが変わったわけでもないのに。自分はなにをこんなに期待しているのだろう。
ーー黄金指 剛コーチ…。
車窓から外を眺める。そこは毎日見ているただの田園風景。
6月の育ち盛りの青田は、音が聞こえてきそうなほどの勢いでグングンと背を伸ばしていて目にも鮮やかだ。遠くの山並みには新緑が萌え、そこに初夏の空の群青色も加わって、トリコロールのコントラストが本当に美しい。
知らなかった。この町の風景がこんなにも色彩に満ちていただなんて。
目からウロコが落ちるとは、こういうことだったんだ。
立ち止まってまわりを眺めてみれば、世界はこんなにも美しかったのだ…。
午前、昼休みを挟んで午後と、週明けの授業が時間割り通りに終わった。
そして、放課後。
3日ぶりに、葵は土居中高校の水泳部のロッカールームでいつもの競泳水着に身を包み、鏡の前で水着の着こなしをチェックしていた。
……剛への闘志の炎を燃やしながら。
「こんにちは。葵ちゃん今日は早いね」
同じく授業を終えてやって来た理子がすでに着替えの済んだ葵に声をかける。
「こんにちは…!お疲れさまです…!!」
葵の口調はいつもどおりながらも、ロッカールームに響き渡るのはグツグツと煮えたぎった地の底のマグマの如き声。水着に着替えた葵は完全燃焼するコンロの蒼い炎のように静かに燃え盛っている。
今朝までのポーっとしながらも晴れやかだったはずの気分はどこへやら、部活の時間それ即ちかの変態セクハラ畜生コーチに再び会う時間が近づいてくると、なぜかムラムラと立ち上る火山の噴煙のような怒りが込み上げてきた。
葵の得意分野であるはずの6時限目の数学にいたっては、授業の初めから終わりまでいささかも集中できなかった。怒りのあまり地底に凝縮されたマントルのように高まる筆圧でシャーペンの芯は折れるわノートの紙は破れるわで黒板上の山型グラフひとつすら模写できなかったほどだ。
ーー考えてみれば、あの変態に大変なことをされたのだ。
暴露系ゴシップ週刊誌の如くかなり悪意を持って表現すれば、学校関係者でもない中年男が水着の女子生徒しか居ないプールに闖入し、嫌がる未成年の柔肌をその欲望にまかせて力ずくで弄び意識を喪失させた上、床に全身を強打させ軽傷を負わせるまでに至らしめた事案なのだこれは。否、もはや事件です。これは。
というか有り体かつ率直に、また身も蓋もなくぶっちゃければ滅茶苦茶に恥ずかしかった。
根が引っ込み思案で小心者の自分がここまで努力して築きあげた「土居中の人魚」としての地位と矜持と、可愛がっている後輩である優が抱いているであろう「我が水泳部きっての天才美少女その名は清水葵せんぱい!」という輝かしいイメージを、あのクワガタ野郎が両手で挟んで粉々にぶち壊し破片も丁寧に砕いた後チリすら残さぬ、といった具合に掃除機まで万遍なくかけていきキレイに消し去ったのだ。どうしてくれよう。
ロッカールームから出た葵はプールサイドを大股でガシガシと歩き、軽くなったカラダの勢いに身を任せてプールに飛び込む。
そして頭を冷やすためとウォーミングアップも兼ねて、怒りの8往復400mノンストップメドレーを繰り出した。件のコーチの登場を警戒しつつも、いつになく軽快でリズミカルな全身の動きで塩素水を一直線にぶった斬るように泳ぐ。3日前と比べ格段になめらかになったクロールの動きもまた、葵にあのマッサージを思い出させる。もはやこの水の中にいる限り忘れることは出来ないのだ。ぐぬぬ。
これほどまでに怒りを覚えたのいつ以来のことだろう。以前、同様のセクハラ行為に手を染めんとした前コーチの悪行を未然に防ぎ追い出した時か。いや、そんなモノの比ではない。今度のヤツは未遂でなく現行犯しかも部員全員をその毒牙にかけた連続通り魔事件の首謀者なのだ。
神経質な部分は確かにあるとはいえ、いつもおおむね冷静な自分がなぜこんなにも平常心を失ってしまっているのか葵自身よくわからない。がしかし、とにかくいま自分は猛り立った空腹のライオンの如く怒り狂っている。それは事実だ。もし自分が特撮映画に出てくる宇宙怪獣で、この怒りを全部集めてクチから破壊光線として出せたなら、このちっぽけな限界集落の中の高校など跡形もなく吹き飛ばせるかもしれない。
8往復400mを泳ぎきった葵は、梯子の手すりに掴まったままプールサイドにも上がらず、海坊主のように頭を半分だけ水面上に出しながら金魚鉢のポンプのようにぶくぶくとクチからあぶくを出して、物思いに沈んでいた。朝はあんなに清々しい気分だったのに…今ならマグマの如く渦巻くこの怒りの熱波で周囲の水を沸騰させてココを温水プールにすることぐらい出来そうに思える。
「葵せんぱい、今日は気合入ってますね…」
ぶくぶくと泡立つプールを見てなにごとかと覗き込んだ優が海坊主になっている葵を発見した。優にまた変なところを見られてしまった。忌々しい。
が、いつまでもプールの塩素水に空気を注入していても仕方がない。葵はプールから上がろうとした。見ると、プールサイドに上がる梯子の手すりを持つ手が白くなるくらいチカラがこもっている。そう、今自分は正義の怒りに燃えているのだ。許すまじ。あの変態コーチ、ただではおかない。セクハラ、ダメ、ゼッタイ。
……ガチャリ。
あの時と同じドアの音。そして、それに続いて同じようにぴたぴたと階段を登る足音が聞こえてきた。ウワサのアイツがやってきたのだ。
1、2、3、4、5段と順調に階を踏みしめるびたびた音が響き、階段に続く穴からそのカラダをモグラのようにぬむっと出現させる光景まで目に浮かぶようだ。
ーーゼッタイ許さない。糾弾してやる。面と向かってズバリ言ってやるわよ。
葵がそう決意と闘志を固めているうちに、びたびた音はプールサイドの近くまでやってきていた。
プールの手すりに掴まっている葵からは剛の姿はまだ見えないが、理子と優の背中は視界に入っている。2人ともすでにこの前と同じようにプールサイドに並んでいた。
声が聞こえてくる。
「あっ❤剛さ…じゃなくて、コーチ…❤おはよう、ございます…❤」
なぜか頬を赤らめて巨乳の前で手を楚々と組みながら、職場から帰宅してきた亭主を迎える新妻のようにきゅっとカラダをちぢめて丁寧なお辞儀をする理子。
「おはようございますコーチっ!!今日もよろしくお願いしまーすっ!」
何年も前から自分を育ててきてくれた兄貴分に対するような、シャキっとした挨拶をかます優。
そして、葵は。
「…」
…葵は、なにも言えなかった。
それどころか、背すじを伸ばしあげてプールの中から剛の姿を確認することすらできなかった。プールサイドに上がるための手すりに掴まった中途半端な姿勢のままで、葵は死後硬直している。
ーーアレ?ナンデ?カラダ、ウゴカナイ?
思考まで石になってしまったようである。
「はい。おはよう。全員揃っているか?」
あの時とまったく同じ声音がプールサイドに響く。あの時と同じようにのっしのっしとした大股で、威風堂々と剛が入ってきたのだ。多分あの時のようにマジメくさった表情と目つきもまったく同じなのだろう。
葵は落ち着くために、上空から迫りくる天敵に対して咄嗟に水中を潜る爬虫類のように、ザブリとプールの中にそのカラダを沈めた。しかし塩素水でいくら頭を冷やそうとも葵の胸の内はあいも変わらずワニワニパニックだ。もし自分の後ろに穴があったら、即入りたい。
葵は一瞬水中で目を閉じてから、勢いをつけてざばふ!とプールサイドに軽やかに上がり、ふぅ…とゆっくり息をついてから、何事もなかったかのようにプールサイドに上がる。とりすました表情で白い水泳キャップを取りながら髪をふりふりしてから綺麗に撫でつけ、深呼吸をする。ついでに首まで回しておいた。
そのまま無言ですたすたと歩き、3日前と同じように理子と優の間にすべりこむように身を走らせた。
そしてまたもや「ふぅ」とわざとらしく息をついて、葵は少し斜に構えながらも両手を後ろ腰に当てて「休めの姿勢」をさらに着崩した感じのアンニュイなポーズになった。でも脚は正面からキレイに見えるようにツンと突っ張ったまま。
そして、目もプールサイドの床に向けたまま。
剛の顔を見ることが出来ないまま。
「揃っているようだな。キミたち、今日の体調はどうかな?」
葵が理子と優の間に立って部員が整列したことを確認すると剛が尋ねる。
「はい。この週末はぐっすりと眠れました。…そ、その、コーチがしてくださった、その、あ、アレ…のおかげなのかな、と……ぽっ❤❤❤」
理子がピンクの頬をさらに桃色吐息に染めながら応える。
「はいっ!ボクもなんだか体調がすんごく良くって!!今朝はいつもの自転車じゃなくて、3丁目のタバコ屋の隣の自宅から走って来ちゃいました!!」
優が快活に個人情報を丸出しにしながら大声で報告する。
「…」
葵は、なにも答えなかった。
答えられなかったのだ。声を上げようとしたら出なかった。というか、クチを開こうとしたら開かなかったのだ。
剛に声を聞かれるのが、恥ずかしかった。
というか、いま剛の真正面に立っているこの状態がすでにもうとんでもなく恥ずかしい。
葵はーーなんで私がコーチの目の前にいるの?2年生だから真ん中なの?並ぶの別に学年順とかじゃなくてよくない?ーーとパニックに陥った。いつものクセで自分から真ん中の立ち位置に滑り込んだことに関しては、とうに忘れている。
元来強烈な人見知りかつ内向的だったはずの少女は、その美貌と才能ゆえに孤高にならざるを得なかった才色兼備の美少女は…。
生まれて初めて好きな人ができて、もうなにをどうしていいのかわからなくなっていた。
「そうか。それは良かった。オレの処置は間違っていなかったようだ」
そう話す剛の目の前で葵は、首から下はパリッとコレッと決めたモデル立ち、首から上は先生に叱られている小学生のようにシュンと折りたたんでいる。ヘンテコな姿勢で声が出し辛い。誰だこんなことを自分に強要しているのは?もちろん目の前の変なコーチのせいである。やっぱり大人は信用できない。悪いコーチめ。
その人形のように整っている顔は、不貞腐れたように床を向きながらも、少し右に15度ほど傾けている。左側から見た横顔のほうが自信があるからだ。化粧品メーカーからシャンプーのCMのオファーが来そうな長く美しい黒髪は、プールからこちらに歩いてくるわずかの時間で撫で付けたのでちゃんとまとまっているかどうか気になっている。
「いま1人だけ返事が聞こえなかったが、葵君も恐らく以前よりカラダが軽くなったことだろう。そうだよな?」
剛にいきなり名前を呼ばれて、葵はクチから心臓が飛び出そうになった。
「………ハイ」
床に目線を落としたまま、なんとか2文字だけ心臓の代わりに押し出す。
「そうか。それなら、よし」
剛が満足げに頷いた。
声をかけられた葵はやっとこさ首を上げて剛の腕のあたりまでを見る。それだけで3日前に味わっためくるめくような快感を思い出して頭がどうにかなりそうだった。
「カラダが軽くなっただろう?自分では気付いてないかもしれないが、腰に相当な疲労が溜まっていたからな。週末はよく眠れたんじゃないのか?」
「ハイ」
「それはよかった。キミは線が細い分、クロールの推進力を得るのを体幹のねじりに頼ってしまうクセがあったからな」
「ハイ」
「ウォーミングアップはもう済んだようだな。今日、泳いでみてどうだった?」
「ハイ」
クチが硬直して同じ言葉が同じ音量でしか出てこない。巻き戻しと再生を繰り返すテープレコーダーのようだ。これはどうしたことだろう。
NOといえる日本人を自負してきたはずの葵は、なぜか剛の前に立つと日本的大企業の窓際中間管理職の如く完全にイエスマンを極めてしまう。その原因がなんであるのか葵自身にもはっきりとしない。なので無論その解決策も見つけることが出来ない。
胸の中では現在進行系で"株式会社葵のキモチ"の取締役たちが「今般我々が直面している苦境は一体全体どういうメカニズムで起きているのかそして我が社は今後どうしていくべきか」について侃々諤々、喧々囂々の大会議を争っている。しかし結論を出すのは難しそうだ。
「いや、ハイじゃなくて。今日泳いでみてどうだったと聞いている」
要領を得ない返事をする葵に、剛が鬼コーチのピリついた雰囲気を見せ始める。
ーーいけない。これは流石におかしすぎる。
せめてナニか違う言葉を発しなくては…葵はそう思って起動したてのアンドロイドよろしくウィ~ンとモーター音を響かせるようにして顔を15度上げた。
葵は意を決して剛の顔…はまだ直視できないので剛の胸のあたりを見る。油の切れたゼンマイ人形が動くように首をギギギと鳴らしながら。その目は剛の両腕を見まいとするばかりに胸板のほうに集中しすぎて、やや寄り目ぎみだ。
剛の上半身は、まわりの風景と一体化したかのようにぼんやりしていた。視力は問題ないはずなのに剛がよく見えない。見られない。頭がクラクラしてくる。
ーー立ちくらみ?今まで経験ないけど立ちくらみって膝がガクガク震えるものなの?
一方、舞台が開演する時の緞帳くらいのゆるやかなスピードで上がってきた葵の表情をようやくうかがい知る事ができた剛は「おっ」と目を見開いた。
夢の中にいるかのような剛が驚きの表情を浮かべた…ように葵には見えた。なにせこんなに照り返しが強かったら剛の顔なんて眩しすぎてよく見えない。全部あの夏の太陽のせいだ。太陽を背にして立っているのは葵の方だが。
「ほほぅ…。物凄い闘志を秘めた目だ」
ニヤリと剛が満足げな笑みを浮かべた…ように葵には辛うじてぼんやりと見えた。どうしても剛をよく見られないのでわからない。きっといまの自分の眼は上目遣いを通り越して長年探し回った親の仇をとうとう探し当てた瞬間のような激烈な三白眼になっていることだろう。
跳ね返り部員が見せる反発心に対して逃げず逸らさず誤魔化さずを貫く熱血漢の剛が、あの時と同じようにビシリと葵を見据えてくる。生徒の気迫も情熱も反発も挫折もすべて飲みこんで包み込む、厳しくも暖かいあの目だ。そんな目で見られたら葵はいろいろな意味で走り出したくなるキモチを押さえ、逆にますます上目遣いの圧力を強めて健気に対抗するしかない。
葵は焦点の合わない瞳を極端な上目遣いで睨みあげるようにして剛の眼力に必死に対抗している。背筋は「参りました」と縮こまらせながら。腰に手を当てたポーズと相まって一昔前のヤンキーが"目線を外したほうが負け"とばかりにメンチを切り合っているかようだ。その中身は不安と未知のトキメキに震える子犬でしかなかったが。
葵の気迫あふれる(ように見える)目つきを、剛はその巨体の全身で受け止めながら、「ふふん」と子どもの成長を楽しみに見守る父親の吐息を漏らすと、葵から目線を外して3人全員に向かって言った。
「…よしっ!早速生まれ変わったキミたちをオレに見せてもらおう。今日もまずは泳ぎの確認からだ。準備のできた者から水に入ってくれ!」
この前のようにパン!と手を打ち鳴らして号令をかける剛。もうずっと前からこの水泳部を指導してきたかのような自然さである。
「はい…❤今日もみっちりご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願い申し上げますっ❤❤❤」
「ハイ」
「はいっ!ボク、全力でがんばりますっっ!!!」
頬を染める新妻と人型アンドロイドと熱血無防備娘が三者三様の、でも従順な返答をして新任コーチの指導2日目が始まった。