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「……この先に、落とし穴がある」
霧の中から、すっと物音ひとつ立てずに現れたのは、不思議な空気を身にまとう男だった。
年の頃合いは、カンニャンよりも四つほど年上に見える。だがもっと若くも見えるし、それ以上の年齢も感じられる。まさに年齢不詳の雰囲気を持った男だ。
その男は、このあたりの山に暮らす男が着ている衣装の中でも、若い男が身にまとう物を少し気崩している風に見えた。
霧の中という事もあり、男の衣装のあらさがしは、あまりあてにならない。
だが男は明らかにおかしい男だった。
だってカンニャンの村の魔除けの印が入っているのだ。
それは帯の端に、これ以上なく分かりやすく入れられた刺繍で、それは村の人間だとわかるようにつけられたものだ。
嫁に行った人は別の場所の印を裾に刺繍するし、婿に来た人には奥さんが縫ってやる。
そんなこのあたりの地方では当たり前に、所属を明らかにするものを持っているのに、それを持っているなら間違いなく、カンニャンの村の誰かであるはずなのに、カンニャンはこの不思議な男を、今まで一度も見た事がなかった。
村は割合密な空間であり、余所者はこの山という事もあって滅多に入らない。顔を知らない住人なんていないのに、この男の事も、この男の噂も、カンニャンは聞いた事がなかった。
これは誰。どうしてうちの村の魔除けの印を入れているの。蚕印。飛べない蚕の成虫の羽根に、魔除けの文様を入れたカンニャンの村の、魔除けの印。
それを持っているのに知らない人なんて、そんなのおかしい……
混乱したカンニャンが、ざっと後ろに下がろうとした時だ。
「この先に落とし穴がある。そこに人間が落ちているのだ。悪いが一人ではあげられない。手伝ってはもらえないか」
「……は?」
男は淡々と、無表情に近い顔をして、カンニャンに言った。感情も読めないが、その真実も読めないし、その裏に隠された事はもっとわからなかった。
だから逃げよう、とカンニャンが思って、周囲を見回しかけた時だ。
「そこで、やたら大きな蜘蛛が、人を助けたがって困っているのを見かけてな」
「……え?」
男は淡々と続ける。
「お前の背中ほどの大きさの、蜘蛛だ。腹に縞模様が入っている。黒と赤と黄緑と、それから白の縞模様だ。その蜘蛛ががちゃがちゃと足を鳴らして、地団太踏んでいる。落ちた人間をどうしても助けたいらしいんだが、一人ではとても無理だと」
ジィズゥだ。カンニャンはそれを確信した。その鮮やかな警戒色の縞模様は、彼女の大事な守り蜘蛛の模様に間違いなかった。
ジィズゥが人を助けたがっている? 穴に落ちて? ……もしかして子供たちのわなに、誰かが引っ掛かっているのか?
頭の中をいくつもの疑問がよぎったが、カンニャンはその男が、じっと彼女を見つめて、まるでそれ以上近付いてこないものだから、もしかしてこの男、山にいる亡霊とかそんな物か? なんて思った。そんな物が山にいても、カンニャンはあまりおそろしく思わない。山で死ぬ人間はいくらでもいる。婆様たちのお伽話の中にだって出て来る。
……相手が危害を加えるつもりがないなら、その言葉を信じてもいいかもしれない。彼女は問いかけた。
「それってどっち」
「こちらだ」
そう言うと男はきびすをかえした。なめらかすぎるほど滑らかな、物音一つ立たない、水の上を歩いても波一つ立たなさそうな、そんな感じの動き。
それを嫌と言うほど見せて、男は進んでいく。カンニャンは霧の中、それを追いかけた。
……風が強く吹いてきた。
「この先だ」
男はそう言って少し先を指さす。霧のせいなのか何なのか、その先に穴があるかどうかはわからない。
そんな事を思った時だ。
ざああ、と強く強く、このあたりでは滅多に吹かないくらいの風が一陣吹いたと思うと、ざああああ、と霧が晴れた。霧が晴れた中で、カンニャンの目に映ったのは、子供たちがよくわなの目印に使う橙色の簡単な紐だった。子供たちのわながある印だ。あの男が言った事は嘘じゃない。
じゃあジィズゥもいるし、穴の中に人がいる。彼女がはっとして男がいた方を見ると、男の姿は影も形もなくなっていた。
「やっぱり幽霊……出るっていうの時は本当に出るんだ……」
でも人助けをしたがるのだから、悪い幽霊じゃなかったんだろうな。
カンニャンはそんな事を思った後、人が落ちているんだった、と大慌てでわながある方に走って行った。
そしてすぐそばで見つけたのは、穴の近くでがしゃがしゃと獣と虫除けの音を鳴らして、誰かを守ろうとしているジィズゥだった。
「ジィズゥ! 探したんだよ、一人で先に行ったりしないでよ。置き去りとか怖いから」
ここになんか落ちてんだよ、と言いたげな瞳を向けたジィズゥが、穴を見る。
「……本当に人が落ちてるの……? って本当に人!」
穴を見下ろしたカンニャンがまず初めに見たのは、ぼろきれの塊だった。まさにぼろきれの塊としか言いようがないもので、泥にまみれてどろどろで、石や枝で引っ掛けたのか裂けたところがあっちこっちにある、布の塊だった。
だが布の塊だけが、落とし穴に落ちるわけがないし、それは少し上下していた。人が呼吸しているのだ! カンニャンは背負子をおろし、縄を取り出し、近くの木に結び付け、穴に垂らした。
子供たちはきっと、大物を捕まえて、お夕飯にする気満々だったのだろう。そんな夢と希望が詰まった落とし穴は結構深くまで掘られていて、縄はぼろきれの所に少しだけ届かない。
でも自分で登れば大丈夫、声をかけよう。
カンニャンは息を吸い込み声をかけた。
「誰か知らないけど、縄おろした! 上がってこい!」
返事がない。
「聞いているのか! 上がれるだろ! 上がれ!」
カンニャンは先ほどよりも大きな声をあげる。だがぼろきれはぴくりとも動かない。気を失っているのかもしれない。仕方がない。
「ジィズゥ、糸垂らして。抱えて上がる」
カンニャンは蜘蛛にお願いした。承知だぜ、と蜘蛛がお尻を向け、するすると糸を垂らす。その糸はぼろきれの所まで容易に届き、カンニャンはそれを掴み、一気に穴の底まで降りて行った。
降りて行き、子供たちが結構熱意を込めてわなを作った事を知る。粘着力が高い樹液がいたるところにはられていて、それにぼろきれはがんじがらめに捕らえられていたのだ。
これでは動けない。カンニャンは口にくわえていたなたを掴み、ぼろきれを切り裂いた。そして現れた人間の男を、脇に抱えて、穴の壁を、糸を頼りによじ登った。
思ったよりも、男は重たい。そして完全に気を失い、ぐんにゃりとして扱いにくいことこの上ない。
しかしカンニャンはやり切った。見事登り、男を地面に寝かせたのだ。
即座にジィズゥが駆け寄ってきて、彼女の様子を確かめる。息は荒いものの大丈夫、とカンニャンは頷く。
そして倒れていた男を見やって、彼女は思いっきり顔をしかめた。
男の顔はひどいものだったのだ。正確には顔とぼろきれを引っぺがした男の上半身は。
いったい何度ひどい炎症を起こせばこうなるのだ、と言いたくなるほど顔が崩れているのだ。ひっかきむしった形跡もあり、そこから血と体液がにじんでいる。
ただれにただれて、腫れているのか熱を持っていそうな箇所もちらほら。
「……その辺の草にかぶれたか?」
他に思いつかなかった。たまにこのあたりの草にかぶれて、かゆいかゆいという村人はいる。それと同じだろうか?
とにかく村に運んで手当をしてやらなければ。カンニャンは背負子を背負い、男をうんしょ、と両手で持ちあげた。
「ごめんジィズゥ、この人抱えてくから、帰りも自力で走って!」
男は彼女が相当頑張って持ち上げれば持ち上がる位で、これなら走れる、とカンニャンは転がるように山を駆け下りた。
転がるように駆け下りれば、いやでもけたたましい音が響き渡る。その音が近付いてきたから、子供たちは目を輝かせた。この場所から来るのは盗人探しの男たちじゃない。という事は、わなを見て来てくれたカンニャンだ!
事実彼女の蜘蛛が薮から現れる。子供たちはわらわらと駆け寄った。
「カンニャン、帰ってきた! 俺らのおやつどこ? ジィズゥが背中にいないって事は大物でしょ! 大物のおやつ、お夕飯!」
「母ちゃんに大鍋の用意してもらわなきゃ!」
「お前ら! おやつはとれなかった!」
蜘蛛のすぐ後から現れた彼女を見て、子供たちはなんでおやつがないのかわからなかった。あのわなは結構ちゃんと、虫の移動経路を調べて掘ったわなだったのに……
しかし、子供たちの好奇心旺盛な瞳はすぐさま、彼女が両手で顔を真っ赤にして抱えている何かに向けられた。
赤剥けのなにかだ。手足が全部で四つ、蟲じゃない。じゃあなに?
子供たちはそれが、皮膚がただれにただれた人間だと、気付けなかった。
「カンニャンそれ、何?」
「おれらのおやつの代わりに、何拾って来たの?」
「お前ら! 手伝って! フェンはぼろきれ持ってきて! クィン、メイホァばあちゃんに仕事だって言ってきて!」
「え?」
「これ人間なんだよ!」
「ええー」
「えー、何で人間がかかるの」
「おれらのお夕飯が……」
「そう言うのは後でゆっくり聞くから! とにかくこいつ穴に入ってたんだよ! 手当しなきゃならない!」
「はーい」
「おればあちゃんの所でお湯わかすー」
「おれら巻けそうな布持って来る!」
ぶうたれてはいたものの、子供たちだって、ここまで重傷の人間を無碍にする神経は持っていなかった。
そのため各々、手当てに必要そうな物を持ってこようと走り出す。
カンニャンはせいや、と男の体を抱え直し、そのまま急ぎ、メイホァ薬師の元まで、えっちらおっちら走り出した。
その後を、蜘蛛が心配そうについていく。
村のはずれにある蚕小屋と違い、村の中心部に近い場所にあるのが、メイホァ婆さんの仕事場である。あまりにも村から外れていては、何かと不便だからだ。
先にクィンがばあちゃんに声をかけていたからか、メイホァ婆さんは入口の外で待っていた。