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「嬢ちゃん、あんたが着ている上着はたいそう白いんだねえ、一体どこの麻だい?」
「これは故郷の特産品なんですよ、たまに大蜘蛛が、気が向いたら衣装の形に作ってくれるんです」
「蜘蛛の糸! 聞いた事がないくらい珍しいな! でも、大きな蜘蛛って言ったら、山の方だろう? あっちにはそりゃあ大きな、神様とまで言われる蜘蛛がいるって話だ」
「近隣の山には、そりゃあたくさん、いろんな大きくて怖い蟲がいっぱいいますよ」
いいつつ、ランは自分の着ている上着を見やった。ジィズゥの婿入り道具の一つ、上着である。
ランは、こちらではこれをいつでも着ているわけだが、擦り切れたり破れたり、汚れたりしないで、その上着は白く白く、おひさまの光が当たるときらりと光る。
市場の人間たちの目を引くものだが、蜘蛛の糸、と聞くと大概の商売人たちは、そりゃあ手に入れられねえなあ、と言って引き下がる一品だ。
蜘蛛の糸が強靭だというのは、大型の肉食蟲が行き交う地域と少しでも交流があったら知る訳だが、蜘蛛の糸で衣装を作れるほど、蜘蛛が大人しく糸を吐き出す事は普通はない。
それに、山村の物資が少ない所では、手間暇をかけて、使えるモノをかき集めて、日常生活の品物を作る、というのも知れた話で、ランの上着もそのたぐいだろう、貧乏人の印だ、と認識するわけだ。
ジィズゥの作る衣装は一点物で、ラン以外の誰も作ってもらった事がないので、彼等の考えとは少し違うものの、訂正する意味もないので、無駄な争いを避けるためには黙っておくに限るのだ……
「蟷螂とか、蜻蛉とか、飛蝗とか! 肉食蜂もそれなりに」
ランが知っている虫の事を口にすると、商人は身を震わせた。
「多少は聞いた事があるよ! あんたあっちの方の出身かぁ! あっちはそれはもう素晴らしい銀月蚕の糸が運ばれてくるが、やっぱりそういう地域性ってのがあるんだねえ」
ランはこっくりと頷いた。
「うちの村は特に、銀月蚕の糸の質がいいんですよ! だから租税でめちゃくちゃ持ってかれるから、交易に出回らなくて」
「なあるほど……それだけの質の生糸なら、きっと後宮の美女たちがこぞって身にまとっているんだろうなあ」
「どうでしょう? 聞けば蛮族との物々交換にも、良い質の生糸を使うって。そっちに流れてるかも」
「いやいや、そんな自慢の糸なら、後宮の美女たちが、意地でも自分たちの手元に起きたがるものだよ!! 美女たちは身を飾るものに関して、金銭を惜しまないからね!」
「おじさん、褒めるのは良いけど、その麻がその値段はおかしい。糸が均一じゃない」
「ちぇ、誤魔化されてくれねえか」
「数字が高すぎ。もっと低くしないと、あとでごろつきに因縁つけられて、この前みたいに殴られるよ」
その時助けられないんだからね、といったランに、すっかり顔見知りの男が笑った。
「あんときは助かったぜ、嬢ちゃんだろ、あの時山羊を走らせたの」
「買った山羊だったからね、走らせても捕まえれればいいわけだし」
ランは男と顔を見合せた後、買い物をしているおばさんがさて、と声をかけたので身を引いた。
「さて、交渉だよ、布売りさん」
「おお……」
布の商人がちょっと引きつった顔で笑った時だ。
不意に背後が騒がしくなり、そちらを見やると、うら若い女性が背中に誰かを庇い、そしてそれに対して今にも腰の刀を抜き放ちそうな、物騒な男がいる。
「そいつをさっさとこっちに渡せ!」
「あなたなんかに妹を渡すものですか!」
「お、おねえちゃん、もう、もういいから!」
「駄目よ! あなたこの前顔中痣だらけだったでしょ! あんな目に合わせる男の所に行かせるわけにはいかないわ!」
「何だと! お前の妹を高い金で雇っている若様のことを馬鹿にするのか!!」
「高いお金は魅力的だけど、妹が痣だらけなんて言うのはごめんだわ!!」
なかなかの怒鳴り合いである。ランは小声で近くにいた人に問いかけた。
「ねえ、あれ何してるの」
「ああ、あっちの男の着ている物に、紋が入っているだろう? あれは近隣でも指折りの金持ちの家の護衛なんだ。で、あっちの女の子が庇っている美少女、あれは近くの村一番の美少女って評判だった女の子でね、あの二人は仲のいい姉妹で、たしか妹の方が美貌から金持ちの家の若様に、侍女になってほしいって言われて、働きに出たって聞いたなあ」
「何であんな言い争いになってるの」
「美少女の妹の方が、時々街に出る時に、顔にくっきり青あざが出来てる事が多くってな、聞いた姉が心配して、休暇だからと妹を連れ帰ったみたいだな、で、護衛が妹を追いかけてきたと」
「ふうん……」
こういうのはよくある話なのだろうか。ひそひそと女性たちが話している声を、ランは聞く。
「かわいそうだけど、あの家の若様のお迎えには逆らえないでしょ」
「でも、見てよ、妹さん、あんなに顔や腕に痣があるわ」
「お姉さんの方が、殺されるんじゃないかって心配するのもわかるわあ……」
ランはよく分からない事が、町では起きるのだな、と思い、さっさと目的が終わったら帰ろう、と思った矢先だ。
「お前!! そろそろ痛い目に合わないとわからないらしいな!」
と護衛が大声で怒鳴り、刀を抜き放ち、そして姉の方に切りかかったのだ。
姉は顔を引きつらせ、刀の餌食にさせるまいと、妹を後ろに突き飛ばした。
あの人、自分は切られる覚悟があるんだ、でも。
ランはそれを見た瞬間に、人を押しのけて、飛び出した。
「ラン! 刀の前に出ちゃだめよ!」
買い物に来たご婦人が大声を出すが、ランにはある程度相手をひるませる目算があった。
目の前で人死にが出るのが、なんとなく気に食わなかった、たったそれだけの事だったのだが。
ランは、お姉さんの前に飛び出しそして。
刀を己の腕で弾き飛ばしたのだ。
普通なら切り飛ばされるはずの、少女の細腕はしかし、白々とした布に覆われており、刀は刃が通らないとでも言いたげに、少女が跳ね上げた腕の力に負け、男の手から弾き飛ばされ、くるくると宙を舞い、どすり、と地面に突き刺さったのだ。
「……え?」
まさか関係のない人間に前に出られるとは思わなかった、という顔のお姉さんを見る事もなく、ランは男を見てただ告げた。
「死人出しちゃぁ、まずいでしょ、衛兵来るよ」
「な、おま、どうやって、子供ほどの重さがある刀だぞ、なんで」
男は刀の重みで、ランの腕程度なら切り落とされると思っていたのだろう。
だが思惑とは違い、刀の方が弾き飛ばされたわけなので、大混乱しているのだ。
ランは男を見て、すっとある一点の方を指さし、もう一度言った。
「市場で刃傷沙汰起こすんじゃないよ、あんたの家が出禁になるよ、あんたの雇い主はこの市場に品を出せなかったら困るんじゃないの」
「あ、あ、あ……」
ランがすっと一歩足を踏み出し、告げる。
「衛兵が来たね」
ランの言葉が出たと同時に、騒ぎを聞きつけた衛兵が、男を掴み、怒鳴った。
「市場で刃傷沙汰は厳禁だ馬鹿たれ!!」
「罰金刑だぞ!」
「何処の人間だ!!」
「大人しくこっちへ来い!!」
衛兵たちに抵抗する事の方が面倒だ、という事はわかる男だったようで、男は化物でも見る顔でランを見ながら、引きずられていった。
それを見送り、ランは落とされたままの刀を掴み、ぶんっと振ってみた。
なかなかの重さだが、結構質は良さそうだ。こんな所に落としっぱなしで、去っていくのが悪いわけで、そうだ、柄の近くに模様がある、きっと値打ちもの。
問題の商家へ届けにでも行くか、とランは思い立ち、お姉さんの方を見やった。
お姉さんは、妹に助け起こされて、こちらを目を丸くした顔で見ている。
「ああ、お姉さんたち、聞いてもいい? 妹さんが働いている商家ってどこ? これ落とし物ですって届けに行こうと思うんだ」
「あ、あなたは……ありがとうございます……」
「姉を助けていただき、誠に感謝します……」
二人が同じ顔で頭を下げたため、ランはただなんて事はない、という声で言った。
「目の前で流血沙汰されるのが、ちょっと嫌だっただけだから、別に。全く、こんな重たい刃物で女の子切ろうとか、正気じゃないよ。ばっさりいきそうだよ、これたぶん」
ぶんぶんと刃物を振り、重さから推測できることをいったランに、二人はまた頭を下げて、そして何度も感謝しながら去って行った。
ランはそれを見送り、周りにまた問いかけた。
「妹さんの働いている商家ってどっち?」
「落とし物、届けに来ただけ」
「あのなあ、嬢ちゃん、刀を落すって普通じゃねえだろ」
門構えからして立派な家の前に来て、ランはずいと刀を突きだして、落とし物を届けに来た、とだけ伝えた。
だが、大ぶりのかなりの重量の刀と、普通の顔立ちの、やたら白い上着を羽織った少女はかなり違和感があり、刀を落すという単語からして普通とは思えないのだ。
門番がなにか勘違いしているのでは、と思って問いかけた矢先だ。
「門番さん、その子の言っている事は事実さ。うちの護衛の一人が暴走したみたいだね、刀を振り回して挙句の果てに、衛兵につかまったらしい」
「わ、若様!」
門番の背後から声がかけられ、慌てて振り返れば、そこには眉目秀麗な、色白の当家の若様がいるわけだ。
門番が背筋を伸ばす中、ランはただ事実を言い、さっさとこれを引き取ってくれないものかと考えていた。
「これ、落とし物なんです。届けに来たのに、勘違いじゃないかって話になって」
「見せてごらん。これはフーリンのものだね。誂えのあちこちがそうだと示している。全く、こんな高価なものをほいほい落とすなんて、うっかりも過ぎるね」
若様はランから刀を受け取り、すっと柄のあたりを見やり、あっという間に持ち主を特定して、呆れた声で続けた。
「さて、君は一体何者だい?」
「何ものってただの女の子だと思う」
「ただの女の子が、こんな面倒な話になりそうな物を持ってくるわけないだろう?」
「そんな事言ったって、だってこれいい感じの刃物だし、なくなったらそれなりに困るだろうし。そうだ、あなたはさっき、市場での騒ぎを知っている感じだったけど、ここで働いている綺麗な顔の女の子の、顔が痣だらけだったりするのはどうして?」
「……ああ。あの子は盗み癖が酷くてね。父が毎回怒り狂って叩くんだ」
「へえ、盗み癖。そんなの、さっさと追っ払えばいいじゃない」
「ところがそうもいかなくてね、君も見ただろう。あれだけ綺麗な顔の女の子だから、父がやめさせたがらないんだ。でも盗みを繰り返すから、結果的に折檻が増える」
「ふうん」
ランはそれ以上聞く事をしなかった。聞いてどうするのだ、自分が解決できるわけもないし、盗み癖なんて、関わりすぎてもいい事なんて一つもない。
「なんか聞いてて納得した。というか、あの綺麗な女の子が、生きているだけましだって事がわかった。雇われ先の物を盗んだら殺されるって聞いた事あるし。焼けた鉄ごてを当てられてひどい目にあうって話も聞いたし、あの子があの程度で済んでるのって、あなたのお父上が寛大なんだね」
ランはそれだけ言うと、やる事は終わったのだから、家に戻ろうと踵を返した。
そんなランを、若君はどう思ったのか、呼び止めた。
「君、待ってくれないか」
「なんで? 私は落とし物を届けに来ただけ。ちょっと首突っ込んだだけで、これ以上首を突っ込むつもりはないから、帰るのが正しいと思うんだけど」
「市場での騒動を知っていると君が言ったんだろう? 君がこの刃物を払い落としたという人たちがいるんだ。君は何かの武術の達人なのか?」
「さあ……武術っていう物は修めていないからわからないや。私が相手にしてたのって、芋虫というか、でっかい蚕というか……そんなのと一緒に山を歩いてばっかりだったから、体力とか筋力とかがあるだけだと思うよ。それに、山育ちで目がいいから、とっさに剣先が見えて、叩き落せたっていう幸運なだけだと思う」
「そうかい。ところで君はどこに暮らしているんだい?」
「あっち」
ランはそう言い、ヤーユの家のある方角を指さした。
「家を詳しく言っちゃいけないって、厄介になっている所のお兄さんが言うから、言えないんだ、ごめんなさい」
それを聞くと、若君はそうかい、と納得して、それ以上引き留めなかった。
そのため、ランはさっさとヤーユの家に帰ったのだった。




