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ヤーユとの生活は、カンニャン……いいや、もうランと呼ぶべきか、彼女にとってはとてもなれない事の連続に等しかった。
何しろランは長い間カンニャンという職業を請け負い、記憶にあるかぎり彩燦蚕の世話をし続け、その事に関しては一流と言って何ら問題のない少女だったが……生活能力に関していえば、そこら辺の同じ歳の乙女たちと比べると、低い基準でしかない。
普通の家の掃除などした事がない。蚕小屋の掃除ならお手の物だが。
普通の女の子がする事の筆頭に挙げられる、糸くりや畑仕事もした事がない。ランはそれはもう山歩きの達人と言っていいし、蚕たちを追いかける能力も突出しているが、畑仕事に関して言えば、そういう事をした事がないのだ。
村では共同の井戸があり、そこで大体の身支度を雑に済ませるくらいしか目的がなかった時代が長い事もあり、水を汲んで家に溜める、という事も不慣れである。
そのため、慣れない事が山積みで、ランにとっては苦労しかない生活となったのだ。
「よっくらせ……」
ランは掛声をあげながら、水の入った甕を肩に持ち上げて、倒れないように固定して歩き出す。ちゃぷちゃぷと、溜められた水が音を立てる。
最初はこつと言ったものが分からず、こぼしそうになり、水が貴重品だというのは何処の暮らしでも共通であるわけで、なんとか意地と根性で運んだものだ。
だがそのコツも掴んでしまえば、まあある程度までは持ち上げられる。
元々ランの筋力はそれなりにあるわけだし。
そうしてランが、朝いちばんの仕事である水汲みをして、あばら家の入り口の、垂れ莚をくぐると、起きる時まで寝転んでいたはずのヤーユが欠伸をしながら囲炉裏の火を熾し、眠たげな顔で薪を囲炉裏にくべている。
囲炉裏があるのは若干珍しい家で、このあたりでも囲炉裏のある家はヤーユの家だけなのだとか。
元々、遠方の出身の人間が作った家で、その人間がヤーユに船上で命を助けられたお礼に、家を譲ったのだと、ランは前に聞いていた。
ヤーユはこの囲炉裏のある家を気に入っており、たとえどれだけぼろい家であろうが、引っ越す事もなく暮らしているらしい。
さて、囲炉裏に火をくべていたヤーユが立ち上がり、大きく体を伸ばしながら、カンニャンが運んできた水で顔を洗う。井戸で支度を整えないのか、と聞いたところ、ヤーユは面倒な顔になってこういった。
「戦場帰りの傷で戦かれる回数が多すぎて、面倒になった」
なるほど、納得のいく答えでもあった。事実ヤーユの体はそれはそれは傷痕まみれで、一体どんな治療法をしたらこんな傷を受けても生き残れるのだろう、と思わせるモノまであるのだ。
顔見知りの人間たちだって、ぎょっとしてしまうだろうし、聞きたがる事はあるだろう。
だがヤーユは喋る事を億劫な事の一つ、と考えているような大叔父であるがゆえに、質問に対して答えるのを、面倒くさがることに関して、違和感などなかった。
さて、ヤーユが顔を洗う間に、カンニャンは食事の支度をするわけである。ヤーユが都風に髪の毛を束ねて布でまとめている間に、作られる料理など限られている。
ランは料理と呼べるものの種類をほとんど知らないし、調理道具などもそこまでふんだんにあるわけでもないので、調理法は限られている。
そんな中で作るのだから、毎日同じもの……と言ってもおかしくはないだろう。
ランは家の中にある稗や粟といった穀物の袋から、それらを升で秤って、囲炉裏の鍋に入れてから水を入れる。
それに少しの塩を加えて煮るだけだ。大体朝はそういった粥が多く、とりあえずそれに対して苦情が来た事はないので、ランは毎日それを作る。
「……まともに粥を煮れなかった娘が、まともに粥を煮る事が出来るようになるのは、感慨深いな」
囲炉裏の鍋を眺めて、ぼそりと言うヤーユにたいして、ランは唇を尖らせた。
「あのさあ、ヤーユ兄さん。私の仕事の事とか知っててそれを言う?」
「リャオは何でもこなしたからな。まあ、リャオは大型の蚕を育てる能力はなかったが」
「そうなんだ」
「リャオほどなら、もっといい嫁の貰い手がいくらでもいただろうに」
族長の四番目の妻になった身内に対しての文句は、まあヤーユの口から時折出て来るもので、それの結果いじめられて、山に消えたともなれば、そういう事を言いたくなるのも仕方がない事だろう。
ランは粥が煮えたので、それをよそってヤーユに差し出した。
ヤーユはそれに乾燥させた薬味をぱらぱらと入れて、ずずっとすすった。
「今日も帰りの時間は変わらない。お前はまた桑畑の世話か」
「うん。桑畑の事ならそれなりに出来るし、他の畑仕事も最近は手伝うようになったよ。あと、小さな蚕の世話とかも、女の子たちに頼まれて交代する事がある。女の子たちは、畑仕事の途中で、男の人に声をかけられたいんだってさ」
「どこでも、それは変わらないな。大体において、洗濯物の途中と、畑仕事の途中で男は意中の女に声をかけるものだ」
「やっぱりヤーユ兄さんもそれは言えるんだね」
「周りの男どもの行動を見ていればわかる。俺ほど年を経ると、鈍くなる部分だがな」
「ヤーユ兄さん、一応見た目の年齢おかしいって自覚ある?」
「仕方がないだろう、何せどうあがいても見た目が年相応にならないのだから」
都のなかでも上流階級の女どもが聞けば、目の色を変えて秘法を聞くだろうが、秘法などないしな、と彼は粥をすすりながら言い、食器に残った粥をぎりぎりまで匙でかき集めて食べて、食器にお湯を注いで、くるりと匙で食器にまだついている粥を浮き上がらせて、それを飲み干した。
ランはそれを受け取り、綺麗な布巾でさっと拭う。油っぽい食事でも何でもないため、だいたいこのあたりの人間は、こうやって食器を綺麗にしてしまうのだ。
串に刺した蟲が食事の一つやおやつだった、村とはえらい違いである。
「まあ、兄さんの見た目はどうでもいいか。とにかく、女の子たちに蚕の世話も頼まれているから、帰りがちょっと遅いかもしれないや」
「近い道を通ろうと思って、細い小道を通るんじゃないぞ。このあたりのごろつきは、俺と喧嘩をしたくはないだろうが……それでも気をつける事は必要だ」
「はい、ヤーユ兄さん」
そんな会話をしながら、ヤーユは身支度をそれなりに整えて立ち上がる。彼の仕事の中身はよく分からないながらも、畑仕事でも商売仕事でもなく、都の方の兵士関係の仕事だという事は、ランがうっすら分かった事である。
深くきく事をしないのは、興味がないからでははく、言いたくない事を喋っても、あまりいい事にならないと人生経験から知っている故だ。
仕事の中身を言いたければ、いうであろう。
ランはヤーユとの二人暮らしをそれなりに落ち着いて過ごしたいので、ふんわりした状態でも問題がないと思っていたわけだった。
「ランは働き者だわねえ」
そんな事を言ったのは、桑畑の世話をして、蚕の食べる桑の葉を集めていた時だ。
山村でせっせとそればかりして過ごした少女にとっての、日常は、他人から見ると働き者に見えるらしい。
「山でやっていた事はいくらでもできるんですけど、やってなかった事の方が多くって」
ランが少し恥ずかしい、というと、桑畑の持ち主のご婦人は、ちらりと別の方にいる、お喋りに夢中な自分の娘を見てから、いう。
「あんたくらい働いてくれればいいのに! うちの娘と来たら男とおしゃべりする方に宇ばっかり夢中で」
「でも、娘さん糸繰とっても上手じゃないですか! 私あんなに細くて均一な糸作れませんよ」
「あんたは人のいいところを見つけるのが上手だねえ……そんなにいいこなのに、嫁の貰い手がいなくて、ヤーユの所に身を寄せてるんだろ、親戚だって聞いたけど」
「そうですよ、母方の親戚です」
「ヤーユも昔はもうちょっと生き生きしていたんだけどねえ、最近じゃすっかり世捨て人風のけだるそうな顔になっちまってさあ。そういう顔がいいっていう女の子が黄色い声上げて声かけても、一切合切無視で」
「ヤーユ兄さん、昔はそれなりに女性関係あったらしいですけど、戦争に行きすぎて、心配かける大切な女性を作りたくなくなったって、言ってました」
「そうだったのかい。まあヤーユは戦争という戦争に引っ張って行かれても、必ず帰ってくる幸運な男だけれど、……普通はそうじゃないからねえ。そういう考え方になるほど、友達達が死んでいったんだろうね」
「きつい事の一つとして、友達の遺品とかをその恋人とか兄弟に渡すのが嫌だって言ってました。なんであんただけって泣かれるの困るんだと」
「違いない!」
いいつつご婦人は、さて、買い物の荷物持ちに付き合ってちょうだい、とランを手招き、ランはそのまま朝市に向かう事になったのだった。




